年表 北海道民放半世紀(1951年-2001年)

年表 (3) 1970年-1979年

1970年(昭和45年)

大阪で日本万国博開催
この年3月14日から9月13日まで[日本万国博]が大阪で開催され、期間中6421万8770人が訪れました。[人類の進歩と調和]がキャツチフレーズのこの万博には世界各国から77ヶ国が参加しました。会場入り口に建立された岡本太郎さんの[太陽の塔]は今も残され当時の想い出を留めています。多くの話題を呼んだパビリオンの中でも、[アメリカ館]に展示された[月の石]は、前年アポロ11号が持ち帰った物として大変な評判を呼んでいました。1970年は国内が万博一色に塗りつぶされた万博の年でした。

1971年(昭和46年)

札幌に初の地下鉄開通
翌年に冬季オリンピツク開催を控え、札幌の街並みは各種競技施設の完成、新しいシヨツピングゾーンのオープンなど大きく様変わりを見せましたが、その中でも12月15日東京、大阪、名古屋に次いで全国で4番目に開通した地下鉄は、是までのアクセスに大きな変革をもたらし[ゴムタイヤ]方式の地下鉄は全国的にも大きな話題を呼びました。オリンピツク開催を控えたこの年に、地下鉄南北線が開通して札幌の南北を縦断するアクセスが完成したのです。南の終着地はオリンピツクのメイン競技場のある[真駒内]です。この地下鉄南北線に始まった札幌の地下鉄はその後[東西線][東豊線]の開通に繋がり、現在では市内を東西南北にまたがる交通アクセスの大動脈として大きな役割を果たしています。

1972年(昭和47年)

札幌冬季オリンピック開催
この年2月3日から13日まで札幌冬季オリンピックが開催され、期間中札幌はオリンピツク一色に塗りつぶされ、連日繰り広げられる熱戦の数々に感動のドラマが生まれました。我々にとって今でも強く脳裏にとどまっているのは、[宮ノ森シヤンツエ]で行われた70b純ジヤンプ競技で、笠谷幸生、金野昭次、青地清二の日本ジヤンプ陣が金・銀・銅のメダルを独占した事です。あの日晴れあがつた競技場の冬空に3本の日章旗がひらめき、君が代を聴いた万余の観衆は興奮の坩堝と化したのです。この模様はテレビ中継で全国にも放映されテレビの前でも暫し興奮が続いたのです。この冬季オリンピツクには全世界35ヶ国が参加し選手・役員1600名の他、多くの観光客が札幌を訪れ、札幌は一躍世界にオリンピツクの都市としてその名を轟かせたのです。
民放史上初の国際映像制作に参画
札幌冬季オリンピツクのテレビ放送は、組織委員会から委託を受けたNHKが全世界の放送機関を代表して映像を制作し、国内の放送権もNHKに帰属することと成っていました。しかし今回のオリンピツクでは、地元民放であるHBCテレビの是までのウインタースポーツへの取り組みの実績が評価され、初めて国際映像制作に参画することとなりました。担当した競技会場である[手稲山]は、同社かん゛切り開きアンテナを設置した場所だけに地理的にも明るく、これらの経験が番組作りに大きく貢献したのです。
テレビ新局[北海道文化放送]開局
オリンピック開催のこの年4月1日には北海道地区4番目のテレビ局[北海道文化放送(uhb)]が開局しました。同社はフジテレビの系列局で、北海道新聞が経営母体として発足したものです。これで北海道地区には、VHF(HBC・SSTV)2局と、UHF(HTB・uhb)2局が揃う事となりました。いよいよ系列間競争も激しさを増してきました。

1973年(昭和48年)

中東戦争勃発とオイルショツク
札幌冬季オリンピツクに明け暮れた1972年が終わり、この年は10月6日に勃発した第四次中東戦争の影響で、石油の供給制限と価額の高騰により[オイルショツク]が起こり景気は後退を余儀なくされました。あの当時のトイレツトペーパー不足で、店頭では[品不足に付きお一人様1ヶ]などという見出しがみられ、トイレツトぺーパー騒動が強く印象に残る年でした。
民放テレビ開局20周年
1963年に日本テレビが我が国民放で初めてテレビ放送を開始してこの年が20周年の節目の年となりました。テレビ20年を振り返ると、テレビ局数、放送のシステム、テレビ広告費など想像を遙かに超えた発展を遂げています。テレビも揺籃期から成長期を迎えマスメデイアのなかでもトップの座を占める状況が醸成されつつある事を実感されられた年でした。

1974年(昭和49年)

経済成長率マイナスを記録
前年から景気の後退局面を迎えた我が国の経済は実質GNPがマイナス2%と戦後初めてのマイナス成長におちいりました 。この影響を受けてこの年から5年間の成長率は4.1%とこれまでの高い成長率から一挙に下降する事となりました。
深夜放送の自粛
電力の消費節約は国を挙げて取り組む処となり、放送業界に於いても[深夜放送の自粛]などの動きが活発となり、東京を始め全国各地のテレビ局の深夜放送は自粛する様になりました。 このような景気の後退局面にもかかわらず、テレビの広告費は堅調に推移して翌年の1975年には全国レベルでテレビ広告費が新聞広告費を追い抜いてトップの座を射止める事になりますが、北海道地区では新聞の力が依然として強く、テレビによる追撃の努力が続けられます。

1975年(昭和50年)

テレビ広告費トップの座を射止める
この年は、全国レベルでテレビ広告費が新聞広告費を追い抜き、この年以降今日までメデイア広告費の王座を維持しています。このような現象を産んだ最大の要因は、テレビ受像機の普及、全国的に張り巡らされたネットワーク網の拡充によるテレビ情報の多様化によるものです。右図は、1971年から80年までの新聞、ラジオ、テレビの広告費の推移を示したものです。1975年以降テレビがメデイア広告の主流の座を占める時代を迎えましたが、同時に電波広告費を巡る地域間、系列間の競合が激化する本格的な電波広告戦国時代の幕開けとなりました。
急速に進む札幌一極化
この年の札幌の人口は120万を突破しました。1970年に100万人を突破した人口は年々増加の一途を辿り、経済、社会、文化的機能が拡充する札幌圏へ道内各地からの人口流入が相次ぎ、道央圏を除く北海道各地域での過疎化に拍車がかかりました。札幌は経済の発展と共に広告市場としても大きなウエイトを持つようになりました。
テレビネツトワークの腸捻転解消
この年4月1日から、これまでJNN(東京放送をキーステーシヨンとしたネットワーク)に加盟していた大阪の朝日放送(ABC)がJNN系列を脱退して新たにANN系列(テレビ朝日をキーステーションとしたネツトワーク)に加盟しました。これは放送局の母胎となっている新聞社との関係で、ABCは朝日新聞系列にありながら、これまで毎日新聞の系列にあった不自然な関係を解消したものです。是によって大阪地区では毎日新聞の系列局は毎日放送(MBS)となりました。これが大阪地区における腸捻転の解消と呼ばれるものです。

1976年(昭和51年)

ロッキード事件に揺れた1年
この年は、年初のアメリカにおける[コーチャン]発言から始まった[ロッキード事件]は、その後国会でも連日取り上げられ、遂に7月27日には田中角栄前総理が外為法違反容疑で逮捕されるという事態になりました。

1977年(昭和52年)

北海道での相次ぐ災害
この年北海道では、5月11日三井石炭鉱業芦別鉱業所でガス爆発が発生し、死者25人を数えましたたが、8月7日には有珠山の噴火により洞爺湖温泉を中心に大きな災害をもたらし温泉住民全員が避難するなど大パニック状態となりました。当時の記録によると、噴火は午前9時12分から11時40分まで大凡2時間半続き噴火は当初海抜1000メートルまで上がりましたが18分後には3500メートルまでの舞い上がったそうです。この噴火により農作物も甚大な被害を被り地域経済に大きな影響を与えたのです。

1978年(昭和53年)

相次ぐ地震
この年は1月14日に伊豆大島近海でマグニチュード7の大地震が発生、6月13日にはこれまたマグニチュード7.5の[宮城県沖地震]が発生しました。又、札幌では6年ぶりの豪雪に見舞われ、2月3日には積雪125pを記録しています。
テレビ局開局
7月1日 静岡県民放送テレビが開局。
FMプランが決定
11月には民放FMチャンネルプランが決定し、札幌、仙台、静岡、広島にチャンネルの割り当てがありました。

1979年(昭和54年)

札幌市の人口
この年札幌市の人口は137万4715人(11.1日現在)となり、神戸市を抜いて全国6番目となる。尚、北海道の人口は553万5000人。
テレビ局開局
4月1日 テレビ埼玉開局
7月1日 静岡第一テレビ開局