左図は[宮の森]の位置を示した図です。[宮の森]エリアは、札幌市中央区の南西部に位置しています。このエリアには冬季オリンピック札幌大会で使用された[大倉山ジャンプ競技場]「宮の森シャンツエ]の他かっての[荒井山スキー場]などウインタースポーツのメッカですが、隣接する宮が丘には、円山陸上競技場、円山球場、円山公園、円山動物園、本郷新記念札幌彫刻美術館などの文化・スポーツ施設のほか、市民の憩いの場である円山公園もあり札幌市内でも有数の住宅街として脚光を浴びているエリアです。一方[円山西町]は、円山養樹園(現在の円山公園)の西方に位置しっ地形は東南は藻岩山に続き東は[吉野山(現在の旭山記念公園)]双子山、西南には[幌見峠]があります。円山動物園裏手を走行する[藻岩山麓通]の西側に広がる住宅街で山裾の閑静な環境に恵まれたエリアです。
いずれのエリアも地下鉄東西線[円山公園駅]からエリア内各方向に路線バスが運行しています。
[宮の森]][円山西町]の歴史
[宮の森]]は、かって[琴似12軒]と呼ばれた集落で明治4年に[辛末一の村]の農民12戸を入植させたのが開墾の始まりです。[辛末一の村]とは、明治4年に現在の南7条西6丁目以東の50軒の集落でしたが開拓使による遊郭建設のため琴似に移されました。その中の12軒が移されたのが現在の[宮の森]でした。入植以来[12軒]と称していましたが昭和18年5月琴似村が町制を施行した際に[宮の森]と改称しましたが古くは昭和3年 に秩父宮、翌4年に高松宮が来道されて、三角山・荒井山を中心にスキーを楽しまれた ことを記念して、昭和5年から「宮様スキー大会」が開催される事となって広く宮 の森と呼ばれるようになっていましたので、前述のように昭和18年に十二軒から琴似町宮の森と改称 されたものです。
また現在の[円山西町]は、かっては[滝の沢]と呼ばれていました。これは地区の中央を流れる[ヨコシベツ川(琴似川の支流)]の上流に[不動の滝]があったことから[滝ノ沢]になったと言われています。この地区は明治27年から開発が始まり大正初期には二十余戸の農家が入植しています。当初は、藻岩村大字円山村滝ノ沢でしたが、定山渓鉄道の駅名に滝ノ沢があり、紛らわしいことなどの理由で昭和28年7月現在の[円山西町]に改めました。
札幌の中心部から[北1条宮の沢通]を西進し、北海道神宮第二鳥居をすぎると[宮の沢]です。瀟洒な町並みを見ながら歩を進めると2条11丁目の左手小路の角に[宮の森まちづくりセンター]があり玄関前には本郷新さん制作の[鳥を抱く女]の彫刻があり直ぐ近くの[宮の森ミュージアムガーデン]の壁面には緒方良信さん制作の[Duo]と言うオブジエが目を惹きます。

[宮の森緑地]
[北1条宮の沢通]を進み[藻岩山麓通]との交差点を曲がると[宮の森緑地]の入り口です。この緑地は海抜85m幅数十メートルの細長い丘です。北側の木段を登り木立の中の遊歩道を暫く歩くと反対側の本郷新記念彫刻美術館の前の宮の森モールに出ます。
[北1条宮の沢通]の[宮の森フランセス教会]です。[藻岩山麓通]の直ぐ側です。

    上左図は、緑地北側入り口の本郷新さんの[太陽の母子像]上右図は、遊歩道
    下左図は、緑地南側出口の降り木段、下右図は本郷新さんの[鳥を抱く女]

[宮の森モール 彫刻の道](彫刻の紹介は別項[円山の歴史と文化]を参照ください)
宮の森3条12丁目の道路880㍍に亘り、コンクリート、ブロック、煉瓦ブロック、御影石の組み合わせた歩道を敷設して本郷新記念彫刻美術館・札幌彫刻記念館へと続く道として整備したものです。道端の広場には本郷新さん制作の[奏でる乙女]の像も配置されています。



本郷新 記念彫刻美術館本館


札幌彫刻美術記念館
[西校野外プロムナード]
札幌市内の[宮の森]地区にある道立札幌西高等学校は、1912年(明治41年)旧姓中学として創立され旧札幌二中として知られた歴史のある学校です。創立当初は現在の中央区北3条西19丁目にありましたが、昭和23年に学制改革で北海道札幌西高等学校となり、昭和37年に現在地である中央区宮の森4条8丁目に移転しました。校舎は地下鉄西28丁目駅前を通る[山の手通]側にあり、校舎と道路の間はフリースペースの広場が広がっています。

西校の前身である旧二中からは、本郷新、佐藤忠良、山内壮夫、本田明ニ等の著名な彫刻家を輩出しており、校舎の内外に多くの彫刻を展示するなど彫刻には理解の深い学校として知られています。プロムナードは2012.9.26日開通式が行われましたが、新たに山内壮夫の[家族]と本郷新の[鶏を抱く女]が設置され、既に設置されている佐藤忠良・本田明ニの作品と併せて4OBの作品がプロムナードに揃っています。

  佐藤忠良[蒼穹]            本郷 新[鶏を抱く女]           山内壮夫[家族]

永野光一[潜ーKirameki]
 この作品は、野外プロムナードではなく、
 校舎玄関前に設置されています。

  本田明ニ[輔仁会員戦没者記念碑]      永野光一[潜ーKirameki]

ウインタースポーツのメッカ(Mecca)宮の森
円山地区には、夏・冬の競技施設があり[円山陸上競技場」[円山球場][テニスコート]などは[宮ケ丘」ですが、宮の森には、かっての冬季オリンピック札幌会場となった[大倉山ジャンプ競技場][宮の森ジャンプ競技場]や古くから少年・少女のジャンプ台として馴染みの深い[荒井山シャンツエ]などがあります。

札幌冬季オリンピツクを始め数々の国際大会を繰り広げ、幾多の名ジヤンパーを輩出した現在の[大倉山ジャンプ競技場]は、かつては[大倉シャンツエ]と呼ばれていました。このジャンプ台は、昭和3年に秩父宮から世界的なシャンツェの建設についてお口添いがあり、大倉喜七郎男爵が私財を投じて建設することを快諾し、昭和6年大倉土木株式会社(現大成建設)が工事を引き受け60メートル級のシヤンツェが完成しました。完成後は札幌市に寄贈されました。これまで市内には荒井山などにジャンプ競技施設がありましたが、大倉シャンツェの完成で本格的なジヤンプ競技が展開出来る様になりました。左の写真は、昭和6年10月に完成したジャンプ台ですが、建設は、シャンツエ構築の世界的権威者であるオラフ・ヘルセット中尉の設計によるものでした。総工費は5万円余りでアプローチの全長100m、幅6m、ランデイングバーンの全長130m、幅10-13mの[60m級シャンツエ]でした。所蔵 北大付属図書館

翌年の昭和7年1月に開場式が行われ、当時の札幌市長橋本正冶さんが大倉男爵の功績に応えて[大倉シャンツエ]と命名しました。(シャンツエは、ドイツ語でジャンプ台の事です)その後永年にわたり[大倉シャンツェ]の名前で親しまれてきました。
所蔵 北大付属図書館
  大倉山に功績を残した先駆者
大倉喜七郎男爵と大野精七博士は、大倉山に多くの功績を残した先駆者として夫々の顕彰碑が競技場に建立されています。

  [大倉喜七郎男爵顕彰碑]
この顕彰碑は、大倉男爵の功績を讃えてジャンプ競技場のリフトの側に建立されています。

   [大野精七博士顕彰碑]
観覧席側の遊歩道に顕彰碑が建立されています。
大倉ジャンプ競技場寸描






[札幌市宮の森ジャンプ競技場]は、中央区宮の森1条8丁目で宮の森の山間の中にあり、公共交通機関も[円山公園駅]からの[宮の森シャンツエ前]だけで、バスの終点から坂道を登る事約10分です。この競技場は、1972年の冬季オリンピック札幌大会開催に合わせて70㍍級のノーマルヒルのシャンツエとして新設されたものです。観客席の収容人数は3万人です。


競技場入り口を入るとブレイキングトラックに沿って冬季オリンピックを記念して五輪のマークが掲示された壁が設置されています。












札幌オリンピツクの華は、ジヤンプ70㍍級の金・銀・銅メダルの独占という快挙でした。3本の日章旗が翻ったのは、宮ノ森ジヤンプ競技場でした。スタンドは興奮の坩堝と化し、君が代と共に青空に昇る3本の日の丸に我を忘れて歓喜の声を挙げたものです。
写真は当日の北海道新聞掲載のものです。










[荒井山シャンツエ]

札幌で最古のジャンプ台は[荒井山シャンツエ]です。
このジャンプ台は、昭和4年に始めての台が作られましたがその後幾度となく改修が行われ、シャンツエの名称も変わりましたが、現在は、ミデアムヒル(k点55㍍)、スモールヒル(K点25㍍)の二台のジャンプ台が整備され、主として小・中学生ジャンパーが使用しています。
各種の大会で多くの記録を残した名ジャンパー達の少年時代大きな夢を描きながら飛び続けた思い出のシャンツエでもあります。
このジャンプ場の直ぐ下には大倉山小学校があります。



[荒井山]

このエリアは、かって建築用材や薪炭材の伐出のための開発が進められて来ましたが明治30年代に入ってからは農耕地として払い下げを受けた後は入植者も増加し、地名も12軒(現在の宮の森)の奥の沢地と言うことで[12軒沢]と呼ばれていました。その後昭和21年には[12軒][12軒沢]はともに現在の[宮の森]に改められました。一方この地一帯を所有していたのが荒井保吉であった事から[荒井山]と言う名前で呼ばれていました。
[札幌環状線 宮の森北24条通]のバス停[荒井山]と[大倉競技場入り口]のほぼ中間点に某宗教法人の施設への通用道路があります。ここから構内を進み本館の建物の前の木橋を渡って木立の間を進むとかっての[荒井山福寿稲荷神社]跡ですが僅かに本殿への階段のみが姿を留めるのみです。(写真左)
手前の標識に沿ってナダラカナ坂を登ると[荒井山展望台]です。


展望台といってもベンチがおいてあるだけです。ここからは先程の荒井山シャンツエや小学校を見る事が出来ます。南斜面から登って小学校下に降りる遊歩道がありますが勾配がきつく降りるには一苦労です。
写真中央が[札幌環状線 宮の森北24条通]です。

[円山温泉由来記]
先程登った南口の某宗教法人の施設は、以前は旧拓銀の研修所でした。この場所が[円山温泉]のあった場所だと言われています。このことに関して北海道立地質研究所報告第81号で藤本和徳さんは次の様に解説しています[荒井山の南麓には円山温泉があった。大正5年頃の2万5千分の1の地図には円山温泉の文字が見られる。現在の宗教法人の建物の西乃至南側の斜面と推定した。円山温泉は、明治33年に札幌の小泉健治氏が発見して浴場を経営していたが明治39年に荒井保吉氏が継承している。宿舎の名前は[遊仙館]である]。
所蔵 札幌公文書館




写真は、円山温泉[光風館]です。所蔵 札幌市公文書館
[ユースの森]

ユースの森は、地図上では名前が表示されていません。また森の何処にも名前の表示がありません。この[ユースの森]の名前は、かってこの場所にユースホテルがあったところからこの名前で呼ばれていて正式な名称ではないようです。森の西側は[藻岩山麓通]が走行し、東側は、荒井山方面に通ずる道路が走行しています、道路を挟んで[補助競技場]があり、バス停もあります。森の中には遊歩道が整備されていて入口・出口も幾つかあります。入り口の案内版には、[この森に棲む野鳥と樹木たち]として次の名前が紹介されています。
[野鳥]
カワラヒワ、シメ、カケス、ヒヨドリ、エトガ
ウグイス、アオジ、ゴジュウカラ、シジュウカラ
ヤマガラ、コゲラ、アカゲラ
[樹木]
ハルニレ、イタヤカエデ、シナノキ、アサダ
ハリギリ、ヤチダモ


[円山西町]


[ユースの森] を出て円山動物園西口前の藻岩山麓通を進むと道路の右手に西町の住宅街が広がっています。西町1-2丁目を過ぎ3丁目に入ると道路が二方向に別れ、一方は[藻岩山麓通]として[双子山」[旭ケ丘][伏見]へと向かい、もう一方の道路は[円山西町神社]へ向います。円山西町は、1-6丁目が山麓側にありますが、6-10丁目は、[藻岩山麓通]を挟んで位置しています。路線バスは、4丁目の[円山西町神社前]で終わりです。この先坂道が続き[幌見峠]と続きます。
[円山西町神社]

[円山西町神社]は、円山西町6丁目で、路線バスの始終発の[円山西町神社前]の道路を渡った場所です。大きな鳥居をくぐると神社の敷地ですが、境内というよりは[緑地]といった趣でかつての原始林がそのまま遺されている、歴史の重みを感じさせてくれる空間です。現在の[円山西町神社]は、1972年(昭和47年)現在名になりましたが、それまでは[滝ノ沢神社]と呼ばれていました。









木立の影に静かに佇む神殿と石碑です。神殿は極めて素朴で質素な造りのなかににも、威厳に溢れた雰囲気を漂わせています。この神社は1895年(明治28年)この地に入植した人々が[大山祇神]を祭神として祀ったのが始まりです。この神殿は、かっての拓殖銀行本店屋上にあつた神殿を譲り受け、あわせて札幌神社(現在の北海道神宮)から分霊を受けて合祀祭神としたものです。現在、祭神としては、大山祇神、大国魂神、大穴牟遅神、少彦名神の4神が祀られています。神殿の脇には[大山祇神碑]と[馬頭大神]の碑があります。[大山祇神]の読み方は、[おおやまづみのかみ]ですが、この神は、日本全国の山を管理する総責任を担った神だそうです。この神は、全国約一万社に祀られている大変有名な神様の様です。


鳥居をくぐった直ぐ側に建立されているのが上田善七碑です。現在の神社敷地は、円山在住の上田善七氏が所有していた853.3坪を神社用地として寄付したものです。この上田氏の功績を称えて1923年(大正12年)顕彰碑が建立されましたが、風雪に晒され刻字も殆ど見えない状態です。上田善七は、特に農業面での功績が大きく、円山地区を近郊一の野菜生産地に作り上げるほか、原野の開拓にも大変尽力を尽くされた先人の一人です。現在の円山会館前庭には、円山開村記念碑と並んで同氏の顕彰碑も建立されています。















[幌見峠]

円山西町から幌見峠、盤渓へと山道が続きますが幌見峠は円山と小林峠の中間に位置しておりこの峠に広がる[ラベンダー園]は札幌でもかなり有名です。特にラベンダー園からの夜景が美しいと言われています。この峠を越すと[盤渓]で、この峠の住所も中央区盤渓471番地110です。