円山の歴史

最古の円山


昭和3年制作の札幌市鳥瞰図   所蔵 札幌市公文書館

[円山]は、明治3年酒田県(現在の山形県庄内地方1)から農民30戸90人が移住したのが始まりで、[円山]と言う地名は明治4年当時の岩村判官が京都の円山に因んで命名したものです。かって先住民族であるアイヌの人々は現在の[円山]を[モイワ(小さい山)]と 呼び、現在の[藻岩山]を[インカルシベ(眺望の山)]と呼んでいましたが、いつの間にか間違って[インカルシベ]のほうを[モイワ]と呼ぶようになったため、本来のモイワは、地名の[円山]で定着しました。当時の両山の山麓一帯は原始林に覆われていました。この原始林の開拓に着目したのが松浦武四郎で彼の幕府への建言で開拓の鍬がおろされました。

開拓使による札幌本府建設の推移 

現在の札幌の原点である[札幌本府]の建設に関わったのは開拓使判官島義勇と岩村通俊の二人ですが、久世長官等と明治2年9月21日品川を発ち25日には函館に到着しています。島はこの後陸路で銭函(札幌-小樽間)に向かい、ここに仮役所を設置しています。島判官に先行して札幌入りをした林・長岡両少主典、営繕係の富岡・阿部両少主典の4名は志村鉄一、早山清太郎を案内役として、コタンベツの岡(円山の岡)から札幌の地形を視察し、現在の大通西4丁目に仮小屋を建て事務所を開設しました。その後ここから東約1里の地に本府庁舎を建設することを決めました。島判官は、札幌の基点を[大友堀]の岸(現在の南1条創成橋付近)に定めて街造りに着手しました。
島判官は現在の北1条西1丁目に官邸を建設し、銭函からここに移って街づくりを進めましたが、東久世開拓使長官と折り合いが悪く、判官を免職となり着手後間もない翌年(明治3年)の2月11日離札しました。後任には函館出張所詰判官岩村通俊が命ぜられています。岩村判官は明治4年2月10日に札幌に入りましたが、当時本府建設を巡る賛否両論が大きく、岩村は札幌本府建設の事業を打ち切る事としました。この決定に猛然と異議を唱えたのは島判官とともに建設に尽くした西村貞陽です。東久世長官もこれに理解を示し、明治4年1月2日には札幌本府建設の裁定が下され約半年の間に建設は急ピツチで進められる事となりました。写真左 島義勇,右 岩村通俊       所蔵 北大付属図書館[明治大正期の北海道 写真編]より転載

島義勇の札幌本府建設構想


札幌市役所のロビーに島義勇の像が建立されています(左図)。この像の台座には、島が札幌開発を着手するにあたつて、洋々たる前途にたいし[他日五州第一の都]と詠んだ詩が刻まれています。彼の構想に対する溢れる自信と期待が満ち満ちています。
[河水遠く流れ山隅に峠(そばた)つ 平原千里の地膏腴(ゆ)
四通八達宜しく府を開くべし 他日五州第一の都]
島義勇は札幌の町造りを始めるに当たり、現在の南1条通を創成川(大友堀)に直交させこれを基礎と定めました。札幌の基点となつたのは創成橋あたりです。現在、開拓判官島義勇が札幌の街造りの基点を定めた場所を残そうと建立されたのが[札幌建設の地碑](右図)で、場所は南1条西1丁目の創成橋の近くです。この碑は、関敏の制作で、高さ1,4メートル、スエーデン産の黒御影石を使い球状の上に東西南北を表徴する様にモチーフされています。

庚牛三ノ村開村

移民小樽港到着の様子判官島義勇は、小貫権大主典と平田少主典に命じて移民募集の任に当たり、酒田・越後で集めた移民は明治3年4月6日と7日にそれぞれ小樽港に入港し20日間に及ぶ小樽での逗留後4月下旬に小樽を出發、銭函までは海路、銭函から札幌までは陸路でした。一行118戸394人のうち[庚午一ノ村(苗穂村)120人][庚午二ノ村(丘珠村)88人][庚午三ノ村(円山村)30戸90人]が配属されました。明治3年が庚午(かのえうま)の年であることからこのような村名が付けられたものです。[庚午三ノ村]の開墾は、酒田県からの移民者によって始められましたが、翌年(明治4年)には、隣の琴似村から9戸の入植者がありました。更に同年5月には、岩手県からの移民6戸が入植し、これらの45戸が現在の円山の開祖と言うことができると思います。
(註 写真は移住民の小樽港到着のものですが明治3年当時のものではありません。所蔵北大付属図書館。

[庚午三ノ村]から[円山村]へ

岩村通俊之像円山開村記念碑円山会館の碑
写真(左)は 円山公園内に建立されている岩村通俊之像です。(中)は円山会館前庭の[圓山開村記念碑](右)は善徳翁碑]が建立されています。
明治4年5月25日当時の判官岩村通俊は.[庚午三ノ村]を[円山村]へと改名しました。
[円山村]と命名されたのは、現在の北海道神宮の前身である札幌神社の仮宮の造営地を[円山]と決めていましたのでこれに因んで[庚午三ノ村]が宮地の麓にあることから地名も[円山]に決まったのです。
[円山村]の人口は明治3年から明治4年にかけては116-7人と一定で、明治8年には183人と着実に増加し,開村から20年の明治23年には121戸440人となりました。この開村20周年を記念して[開村記念碑]が建立されました。かっては円山小学校の校庭にあったそうですが、昭和3年8月、円山公会堂(現在の円山会館)の前庭に移設されています。現在の円山会館(北1条西23丁目)前庭には、この記念碑と並んで[善徳翁碑]が建立されています。

円山村と藻岩村の合併による藻岩村誕生

藻岩村役場円山町の豆畑地

写真(左)藻岩村役場 所蔵 北大付属図書館
写真(右)藻岩村大字円山村の豆畑地
所蔵北大付属図書館


円山朝市の歴史


明治39年4月には、円山村と山鼻村が合併して[藻岩村]が誕生しました。村役場は,山鼻村(現在の南14西11石山通)にあった旧戸長役場を使い、行政区域は[大字円山村]と[大字山鼻村]としました。
明治・大正期急激な発展を続ける中で大正6年4月からも藻岩村は1級町村制が施行されることとなりました。写真(右)は、大正初年大字円山村で、麦の収穫が終わったあとの豆畑の様子です。 藻岩村時代は、農業が盛んでその代表的なものは[円山の朝市]でした。当初は、現在の南1条西10丁目付近で生産者と仲買人との卸取引でしたが、市街地が発達のため年々場所が西へと移動し、南1条西15丁目(現中村記念病院隣)更に南1条西20丁目へと移り、その後南2条西24丁目(藻岩村役場があった場所)で大正6年10月まで続けられましたが、この地は円山村の中心地で交通の要所であった事から移転を余儀なくされ、大正7年からは[円山蔬菜組合]として現在の西25丁目通に移転し、南1条中通から北1条中通の延長200間の朝市を開設しました。その後紆余曲折がありましたが昭和7年には[円山蔬菜組合]を[藻岩蔬菜生産組合]と改め、これまでの[朝市]は、[藻岩蔬菜生産組合円山共同販売所]となりました。下の写真は、大変な賑あいを見せる円山共同販売所の一齣です。
所蔵 札幌市中央図書館
藻岩蔬菜生産組合円山共同販売所藻岩蔬菜生産組合円山共同販売所

円山朝市から円山市場へ

卸売市場が北円山に移転したため円山朝市は円山市場として営業を行ってきましたがその後28年には[円山市場事業協同組合]を結成し北1条西24丁目に木造平屋建を新築し営業を始めましたが、昭和45年には鉄骨ACL造りの店舗を作り発展を続けてきましたが平成22年3月31日閉店しました。閉店時の店舗数は37店舗でした。

北1条西25丁目ー南1条西25丁目中通の様子です。円山市場閉鎖後数件の店舗が通で営業を行っています。近くにはかっての[円山公会堂]の跡地に建てられた[円山会館]です。
朝市時代繁栄を極めた歴史の名残を感じさせてくれます。

円山町時代

岩村大字円山村は1906(明治39年)の藻岩村との合併以降も、藻岩村大字円山村として範囲の変更はありませんでしたが1938(昭和13年)の町制施行に伴い、名称を円山町と改めました、その後1940(昭和15年)2月から札幌市との合併の検討が行われ、1941(昭和16年)4月に合併となったため、円山町時代はわずか3年で終わっています。
円山町役場跡地碑

短命だった円山町時代の面影を留めているのが左図の記念碑です。
この碑は、中央区南2条西24丁目円山郵便局前に設置されています。現在の円山地区は、かっての円山村と呼ばれていました。この碑は平成4年11月に建立されたもので台座には当時の桂 信雄札幌市長の名で次の様に記されています[この地に明治4年4月藻岩村役場が置かれた。円山地区の有志により円山養樹園(現在の円山公園)の管理事務所を移転したものである。昭和13年町制施行により円山町役場としと改名し、また昭和16年札幌市と合併して円山出張所となった。その後も建物の名前が変わったが昭和20年まで存続し、40年余りの間円山地区の中心的建物であった]。

円山町と札幌市との合併

円山町になってからも年々人口は増え、郵便局・卸売り市場なども新設される中で昭和13年4月には藻岩村も町制を施行し[円山町]と改めました。この時の大字円山本村の人口は、2.690戸、13.158人でした。昭和14年の町制を施行後の初めての町会議員選挙後札幌市との合併機運が高まりましたが機を同じくして札幌市も隣接町村との合併に積極的に取り組むことで両者の合意が成立し、昭和16年4月1日合併し今日に至っております。

円山開拓の先達 上田万平・善七兄弟

上田万平碑上田善七碑円山発展の歴史を振り返る時、忘れる事の出ないのは開拓の先達 上田万平・善七兄弟です。
左図は伏見稲荷神社境内に建立されている上田万平の碑です。兄の万平は、1841年(天保12年)現在の盛岡市加賀野に生まれました。万平は彼が31才の1871年(明治4年)4月に弟の善七と共に、庚午三の村(その後円山村に改称)に入植しました。円山村は、開拓使が札幌本府の建設に当たり食糧を供給するために開かれた村です。上田兄弟は、円山地区の農業の発展に大なる貢献を果たしたばかりでなく、地域の発展にも様々な面で大きな功績を遺しています。右図は前述の円山会館前庭に建立されている[善徳翁]碑です。善徳は、上田善七のことで善七は、特に農業面での功績が大きく、円山地区を近郊一の野菜生産地に作り上げるほか、原野の開拓にも大変尽力を尽くされた先人の一人です。

年表