札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)

志村鉄一・吉田茂八縁の地

札幌は、豊平川の扇状地の上に発展してきた街です。まさに豊平川は札幌市民にとって[母なる川]と呼ばれる所以です。札幌の歴史はこの豊平川から始まつたと言つても過言ではありません。写真は現在の[豊平橋]から見た下流の橋です。豊平橋は、札幌市内を縦断する国道36号線の上に架かつていて千歳、苫小牧方面に通ずる大動脈としての役割を果たしています。この豊平橋の東・西の河畔に、札幌開拓の先駆者である[志村鉄一]と[吉田茂八]の碑が建立されています。




安政2年(1855年)、幕府は蝦夷地を直轄地として[箱館]に奉行所を置き、石狩に[調役]を設けました。三代目の調役の荒井金助氏は、豊平川の東岸に[志村鉄一]西岸に[吉田茂八]両氏を渡し守として住ませました。両氏は葡萄蔓を川に張りそれをたぐりながら船を渡したと、言われています。
この写真は、豊平橋の東岸の小公園に建立されている[志村鉄一碑]です。碑文には[志村鉄一は、信州出身の剣客で石狩調役荒井金助の召に応じ安政4年に移住す。幕命により豊平川の渡し守となる]と、書かれています。
現在の日は大正12年(1923年)10月豊平川河畔に建立されたものを後年現在地に移転しました。

所蔵 北大付属図書館

この写真は、志村鉄一の碑とは対照的に、豊平橋の西岸の小公園に建立されている、[吉田茂八碑]です。碑文には次のように書かれています[吉田茂八氏は、南部に生まれ、安政2年渡道し同4年、志村鉄一氏の話し相手として西岸の渡し守となった。資質温厚にして剛胆、狩猟を得意としていたが、後年には創成川の南3条から南6条の堀割工事を請け負つている。このためこの堀割を[吉田堀]とも呼ばれていた]。

現在、豊平川には上・中・下流に48の橋が架けられていますが、最初の橋が架けられたのは明治4年(1871年)です。最初の橋は、丸太を並べた極めて粗末なもので相次ぐ風水害で幾度となく流失を余儀なくされました。この橋も完成後3ヶ月で流されています。このため此の後何度となく架け替え工事が行われました。
所蔵 北大付属図書館

この写真は、旧豊平橋です。大正13年(1924年)完成したこの橋は、当時北海道の名橋と謳われ、橋長120b70、巾員18b29、のタイドアーチ式の豪華な橋でした。昭和41年(1966年)には老朽化のため現在の橋に架け替えられています。 豊平橋は、豊平川に架かる多くの橋の中でも最初に架けられた歴史的にも大きな意味合いを持った橋です。この橋の渡し守としての[志村鉄一・吉田茂八]両氏は、札幌開拓の祖として、今なお歴史にその名を留めているのです。
所蔵 札幌市公文書館 交通史写真帖より転載