札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)

時習館跡

三木 勉(みきつとむ)は、明治5年、元白石藩士らが上手稲移住した時の取締役であったが、開墾の先ず最初に移住者の子弟に教育に手をつけなければならないと考え有志とあい計って茅囲いの粗末な塾舎を建てこれに[自習館]と命名した。この自習館こそ現在の手稲東小学校の前身なのである。自習館は、我が国が明治5年に初めて学制を発布したその年に移住者の自主的な発意によつて創設された最初の教育の場である。明治4年には函館に函館学校、札幌には資生舘と云う公学校が開かれたが、手稲の自習館は札幌地方の私設の学校形態としては最も古いものであった。三木弁勉は自らこの自習館の塾長となつて教育にあたった。三木勉の教育は、読書、習字、算術の学習を主としており、当時としては全く新しいものであった。この様な力強い三木勉の教育を慕って近隣の里の子弟たちも集まってきたと云われている。この自習館は間もなく現在の手稲東に移り、明治16年6月開拓使庁の補助を得て校舎を新築し、その名を上手稲教育所と改められたのである。
(註)このコメントは、手稲記念館の展示パネルから転載したものです。

宮の沢北1条通 西町南19丁目付近

中の川公園

札幌から小樽に向かう国道を走ると円山西町19丁目の[中の川]の橋のたもとに左の様な木標が古木に寄りよって建てられています。

此処には大凡次の様に書かれています。[明治5年(1872年) 旧白石藩の47戸が上手稲に入植し、その中の一人三木 勉は自宅を私塾として開放し[時習館]と名付け子供の教育にあたった。(現在の西区西町北18丁目あたり)。時習館はその後[手稲筆算所]としてこの地に移り、現在の手稲東小学校に引き継がれている]。
公園内に建立されている記念碑です。この碑は、手稲町と札幌市が合併を控えた1967年(昭和42年)2月20日に時習館ゆかりの地に建立されました。学制が施行されたのが1872年(明治5年)ですが、この当時札幌には、資生館(現資生館小学校)、善俗堂(:現白石小学校)、そして時習館(現手稲東小学校)の3校がありました。

碑の台座には、時習館命名のゆわれが記されています。これによると[学んで時に習う]と言う中国の古語を引用して命名された様です。この時習館の創始者である三木 勉が開いた私塾は、間口4間、奥行き6間の茅葺きの建物で、最初の入学児童は7名でしたが、札幌の学校の嚆矢をなすものとして注目されました。その後児童数も増え3年後には30名に達しています。このような三木 勉と弟の格の献身的な努力が認められ、明治11年(1878年)には[公立上手稲教育所]が創設されその後上手稲小学校(現手稲東小学校)になつています。