島 義勇は、1822年(文政5年)佐賀藩士島市郎右衛門の長男として佐賀に生まれました。1869年(明治2年)開拓使が設置され、その年の9月20日には東久世二代目代長官と共に品川から函館に渡りました。開拓使判官としての島 義勇は、札幌の街造りに壮大な計画を練り溢れる情熱を持って実行に着手しましたが、そのためには莫大な費用が必要であり、費用の調達を巡って政府と対立した結果翌年3月志半ばにして札幌を去ることとなりました。札幌の街造りはその後継続されることになりましたが、その構想は随所に継承されています。中でも[コタンベツの丘(現在の円山公園)]は、島 義勇の札幌の街づくりと縁の深い場所として歴史にも名を留めています。
所蔵 北大付属図書館[明治大正の北海道 写真編]より転載
写真左図は札幌の中心部から見た[円山]です。札幌を象徴する山として[藻岩山]と並んで市民に親しまれている山です。[円山]は、標高226メートルの低山で、かつてアイヌ人はこの山を[モイワ(小さい山))]と呼んでいましたが、明治時代に[円山]と名付けられ、[モイワ]は、現在の[藻岩山]に引き継がれました。
この[円山]を中心に山裾には[円山公園][円山動物園][北海道神宮]の他、野球場、陸上競技場などの施設もあり、[円山公園]は桜の名所としても有名です。
この公園の一隅に[島判官紀功碑]が静かに佇んでいます。かってこのあたりが[コタンベツの丘(円山の丘)と呼ばれていたようです。
これは島判官紀功碑]です。円山公園の原始林入り口側の一隅に大きく聳えて建立されています。碑は高さ8メートル、幅2,2メートルで上段に書かれている[島判官紀功碑]は、義勇の旧藩主である鍋島直映が書かれたものです。碑文は第12代北海道長官中村純九郎が書かれたもので、札幌の街造りの基礎を築いた義勇の功績が記されています。
札幌市役所のロビーに島義勇の像が建立されています。この台座には、島が札幌開発を着手するにあたつて、洋々たる前途にたいし[他日五州第一の都]と詠んだ詩が刻まれています。彼の構想に対する溢れる自信と期待が満ち満ちています。
[河水遠く流れ山隅に峠(そばた)つ 平原千里の地膏腴(ゆ)
四通八達宜しく府を開くべし 他日五州第一の都]
島義勇は札幌の町造りを始めるに当たり、現在の南1条通を創成川(大友堀)に直交させこれを基礎と定めました。札幌の基点となつたのは創成橋あたりです。現在、開拓判官島義勇が札幌の街造りの基点を定めた場所を残そうと建立されたのが[札幌建設の地碑]で、場所は南1条西1丁目の創成橋の近くです。この碑は、関敏の制作で、高さ1,4メートル、スエーデン産の黒御影石を使い球状の上に東西南北を表徴する様にモチーフされています。台座は当時の札幌市長原田与作の書で次の様に書かれています。[この地は、銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路の交差点に当たり、明治2年11月10日、開拓判官島義勇石狩大府の建設をこの地から始めた。今日の札幌市はこの付近を基点として発達した]。
写真左が[札幌建設の地碑]
写真右が[島判官時代の最初の創成橋] 所蔵 北大付属図書館
島義勇と札幌神社(現北海道神宮)
北海道神宮の社殿前の一角に島 義勇の像が建立されています(写真下図)。
島は北海道に渡る際、神祗官から[開拓の三神]を授けられていました。これは、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命令されていたためです。島は9月25日函館に着き、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい10月12日銭函に到着して仮役所を設けました。銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め現在地に決定しました。この案内役を務めたのが渡守志村鉄一であり、宿泊所が吉田茂八宅でした。当初は仮宮の[札幌神社]でしたが1871年(明治4年)現在地に移されています。
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当時の[札幌神社(現北海道神宮の前身)
所蔵 北大付属図書館
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