札幌の街を歩いていると意外な場所で先人たちの生誕地や居住地跡の案内標識に出会います。現在では有島武郎邸を除いて殆ど当時の様子を留めていませんが、近代的な大都市のなかでかつての先人たちの生誕地や居住地を知り、往時を偲ぶのも札幌の今昔を知る上で大変興味深いものです。


先人たちの生誕地

明治の初め開拓使によって札幌本府の建設が進められ、これが基盤となって今日の近代都市札幌の姿があります。これまでの歴史の中でも政治・経済・文化を始め多くの分野で活躍されてきた札幌出身の方も多数いらっしゃいますが、今回は札幌で生誕されその生誕地が記録として残されている方々について紹介します。

船山 馨

このパネルは、中央区大通西8丁目第一三共札幌支店ビル前にあります。ここには次の様に記述されています[大正3年(1914年)3月31日に南大通西8丁目の東側T角で生まれ、幼・小・青年期を詩情豊かな札幌の街で過ごした。戦争中にこの地を舞台とした[北国物語]など抒情味をたたえた作品によって文学的出発を告げ、敗戦直後は戦後派作家として活躍し、やがて札幌の歴史と人間愛を壮大に描いた[石狩平野]などの豊潤な長編を世に問い、国民的歴史ロマン作家の地位を確立した。昭和56年8月5日東京で没す]。

パネルが設置されている中央区大通西8丁目第一三共札幌支店ビル前です。現在道路を挟んだ大通公園は札幌を代表する公園として有名ですが、公園として開園したのが1911年(明治44年)なので船山 馨が生まれた大正初期は、公園としては草創期でした。幼・小・青年期をこの地で過ごした船山馨は、年々整備される公園を目にしながら過ごしてきたのでしょう。
大正7年当時の大通公園の様子。所蔵 札幌市公文書館

石森延男

このパネルは、中央区南6条西9丁目のC&C KOKUBUビルの 前に建立されています。パネルには次の様に記述されています[藻岩ロープウエイ山麓駅広場に石森和男の詩[われらが愛する北海道]と石森延男の[ふるさとサッポロは人も自然も美しくあれ]と刻んだ親子の文学碑が建っている。延男が和男の長男として南6条西9丁目(南向き)の一角で生まれたのは1897年(明治30年)6月16日であり山鼻で育った。長編児童文学の隆盛をもたらした[コタンの口笛]を始め多くのすぐれた作品や、[グスベリ][桐の花]に描かれた札幌は美しい。新潮社文芸賞、未明文学賞、野間児童文芸賞など数々の受賞に輝く。1987年(昭和62年)8月14日埼玉県で没した。行年90歳]。
石森延男の生誕地である南6条西9丁目の現在の姿です。[石山通]から少し東に入った場所です。現在[石山通]と呼ばれている西11丁目通は、かつて南区の石山で採掘された[軟石]を札幌本府の建設に使用するため[馬車鉄道]が走行していた通です。

久保 栄

この案内ボードは、中央区南2条西8丁目ダイコービル前に掲示されています。ここには次の様に記載されています[明治33年(1900年)12月28日に南2条西8丁目のこの地で生まれた。創成小学校で三年生まで学び、上京後もたびたび帰省して故郷に親しんだが、東京の一中、一高、東大を経て新劇界に入る。劇作家、演出家、小説家として活躍し近代日本の文学、演劇界に大きな足跡を残したが、戯曲[五稜郭血書][火山灰地][林檎園日記]小説[のぼり窯]は、北海道を代表する取材作である。昭和33年(1958年)3月15日に東京で没した。実弟の洋画過家久保守も明治38年にこの地で生まる]。
久保栄の生誕地である南2条西8丁目は、現在は札幌の中心街としてビルや商店が立ち並んでいますがビルの入り口前に掲示されています。

三岸好太郎

中央区南7条西4丁目[豊川稲荷札幌別院]の鳥居横に設置されている[三岸好太郎]生誕の地]案内板です。ここには次のように記されています。[明治36年(1903年)4月8日にここ南7条西4丁目の一角で生まれた。札幌一中(現南高)卒業後上京して第一回春陽展に入選し、後独立美術協会の創立に参加する。天才的な感覚で次々と作風を変え、特に死の直前の蝶と貝による幻想的な光景など日本前衛絵画の先駆者として果たした役割は大きい。昭和9年7月1日旅先の名古屋で急死した31才だつた。女流画家三岸節子は夫人、道立三岸好太郎美術館がある。厚田村で生まれた時代小説家の子母沢寛は異父兄にあたり、私立北海中学に学ぶなど札幌とも縁が深い。]
豊川稲荷札幌別院です。
下図は道立三岸好太郎美術館です。

森田たま

[創成橋]を渡り東に進んだ南1条東4丁目に[随筆家森田たま生誕地]というパネルがあります。パネルには彼女の経歴が記されています。[森田たまは、1894年(明治27年)12月19日札幌市南1条東4丁目で生まれました。札幌女子尋常小学校(北1条西4丁目現在のグランドホテルの一角)に入学、庁立札幌高等女学校を中退して明治44年に上京し大正2年に小説家として出発しました。昭和11年には、[もめん随筆]で、随筆家としての地歩を築き[現代の清少納言]と称されました。小説[石狩少女]は、青春自画像を書き綴った小説として有名です。また、森田さんは昭和37年から42年まで参議院議員として政治の世界でも活躍されていました。1970年(昭和45年)10月31日東京で死去されました。享年75歳でした]。

島木健作

このパネルは、中央区北1条西10丁目第百生命札幌第二ビルの郵便局前に設置されています。左図のように永年の風雪に晒され文字盤も読めないような状況です。島木健作は、1903年(明治36年)9月7日この地で生まれました。本名は、朝倉菊雄で西創成小学校に入学しましたが父を失い家庭が困窮したた為中退して北海道拓殖銀行の給仕となって夜学に通うなど苦労をつづけました。その後勉学を志し上京しましたが病の為帰郷して北海中学に編入、大正12年に卒業しました。卒業後東北帝国大学に入学しましたが、大正15年には日本共産党に入党し、昭和3年の三・一五事件で検挙され4年間入獄生活を送りましたが、昭和7年に仮出獄しました。出獄後は東京で実兄の書店の手伝いをしながら昭和9年島木健作の名前で短編小説を発表して文壇に認められるようになり、以後多くの作品を書き続けています。1945年(昭和20年)鎌倉で死去しましたが、彼の作品の中では[再建][生活の探究][赤蛙]等が良く知られています。
第百生命札幌第二ビルの郵便局です。前を北1条の幹線が走っています。かってはこのあたりが札幌区と円山村の境界でした。

小説家 武林無想庵生誕地
この案内ボードは、中央区大通西1丁目丸井今井デパート大通館前に掲示されています。ここには次の様に記載されています[道産子作家の第一号である武林無想庵は、明治13年(1880年)2月23日にここ大通西2丁目の一角で生まれた。養父の武林盛一は札幌の写真界の草分けで、実父の三島常磐はその高弟で、のちの武林写真館を引き継ぎこの業界のリーダーとして活躍した。又、札幌区衛生組合組長を勤めるなど、いくつもの公職について札幌の為に尽くしている。明治17年4歳の時に乞われて武林家の養子となり、東京に移った。東京大学を中退のあと、フランスにも渡り、大正期を代表するダダイズム作家として一家をなした。[結婚礼賛][文明病患者][飢渇信][無想庵独話]などの著作があるが、盲目のなかで全生涯を語った[むさうあん物語]は他に例をみない特異な自伝であり、故郷ものも多く収められている。昭和37年(1962)3月27日82歳で没した。