札幌のシンボル創成川は、大友亀太郎の[大友堀]、吉田茂八の[吉田堀]、寺尾秀次郎の[寺尾堀]が原点となって歴史の歩みを続け、2011年その姿を大きく変えて新生創成川としてデビューしました。

札幌の母なる川[創成川]は、札幌中心部を南北に流れる石狩川水系伏籠川支流の河川で14.2`あります。現在の[創成川]は、豊平川の幌平橋付近を源とする[鴨々川]に繋がり南7条から市の中心部を横断し北区に入り石狩市との境界線付近で伏籠川に合流します。
創成川の始発点から川下を俯瞰
現在の創成川の始発点から川下を俯瞰した写真です。創成川を挟んで[創成川通]が北に延びています。市内大通までにはアンダーパスもあります。創成川通以南は[豊平川通]に繋がり真駒内までの間[左岸通][右岸通]が走行しています。[創成川通]は、市内中心部から北区に入り、屯田地区・茨戸地区を通って石狩市に繋がっています。
石狩街道のポプラ並木
札幌の中心部から創成川通を北上すると国道231号(石狩街道)の左が屯田地区、右が太平地区ですが道路の左側には巨大なポプラ並木が連なり美しい景観を醸し出しています。
写真は、国道231号線から屯田地区に入った周辺の様子で中央に流れているのが創成川です。創成川岸には緑地帯も設けられており、住民の散策の休憩場などとしても重宝されています。

大友堀の開削

現在の[創成川]の前身は、慶応2年大友亀太郎が札幌村を開村した折に開削した[大友堀]です。


大友亀太郎は、1834年(天保5年)現在の神奈川県小田原で生まれました。1858年(安政5年)に渡道し、1866年(慶応2年)には函館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出し、石狩地方の開墾の命を受けて現在の札幌市東区(旧元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街造りの発端となりました。これより先の1860年に[荒井金助]が[荒井村]を開村しましたが、遅れること6年、大友亀太郎が現在の東区に[御手作場(箱館奉行所直営農場)]を開き、[大友堀]を開削して、本格的な農業の基礎を築きました。大友亀太郎によって基盤が作られた札幌村の農業は、雑穀から果樹栽培を経て、玉ネギ栽培へと移行して、我が国の玉ネギ栽培の先進地として発展を遂げています。今日の東区発展の基礎を作ったのは大友亀太郎であり、現在札幌市東区の[札幌村郷土記念館]には札幌開拓の先駆者としてその業績の数々が展示されています。大友亀太郎が最初に入植したのは[元村]ですが、明治4年に[苗穂村][丘珠村][札幌新村]が元村が合併して[札幌村]となりました。
所蔵 北大付属図書館[明治大正期の北海道写真編]より転載

大友堀パネル
この図は、札幌村郷土記念館に掲載されているパネルです。[大友堀]の他に[寺尾堀][吉田堀]の名前もありますが、パネルにもある様に、大友亀太郎]が計画した用水路は、当時南3条付近を流れていた[胆振川]の支流から水を引き、現在の南3条東1丁目から真っ直ぐ北に延び、北6条東1丁目から北東に進路を変えて、彼の作った[御手作場]に流すもので、現在の[大友公園(北13条東16丁目)]あたりで[旧伏古川]に注いでいました。一方明治3年には吉田茂八によって[吉田堀(南3条-南7条)]が開削され、更に同年北6条から麻布町の裏を通り琴似川に注ぐ[寺尾堀]が寺尾秀次郎によって開削され、明治7年には当時の岩村判官によって[創成川]と改名されました。[寺尾堀]開削により[大友堀]は、大正14年北6条ー伏籠川間は本格的に埋められ現在は姿を留めていません。

大友堀

大友堀
写真は、大友堀の大通付近の様子です。このあたりか開拓使によって札幌の中心地に決められ街造りが進められました。現在[大友堀]の南3条から北6条付近までと[寺尾堀]の南3条ー南7条間はは[創成川]としてその原形を留めていますがかつての姿は想像すらできません。(所蔵 札幌市公文書館)


写真は、明治4年当時の用水路の写真ですがこの長さは約4qで規模は[深さ]が約1b50aで巾は1b80aありました。この工事は当時としては大工事で、人々は[百万両の大工事]と呼んでいたそうです。完成後、大友亀太郎に因んで[大友堀]と呼ばれる様になりましたが、この堀が農業面ばかりでなく、運送路としても利用されていました。この堀を使って札幌市内への物資が運ばれていました。現在はこの堀の下流は埋め立てられ道路に替わっています。
(所蔵 北大付属図書館)

大友公園[地図の広場]
[大友公園]は、東区北13条東16丁目にあります。この公園は、大友亀太郎が1867年(慶応3年)開いた模範農場[御手作場]跡に作られました。御手作場に水を引くために彫られた[大友堀]が伏籠川に注いだ謂われの場所です。公園の入り口には[歴史解説板]が設置されていますが、これを見ても当時の難事業の様子が良く理解されます。この中に右図の様な[地図の広場]があります。大友堀の全体像が一目でわかるように描かれています。
現在の創成川は、豊平川の分流である鴨々川と繋がっていますが、鴨々川は、明治4年豊平川の幌平橋付近に設置された水門(写真下左図 所蔵北大付属図書館)から取水しています。この水門は現在創成川取水樋門(写真下右図)として取水調整をおこなっています。
創成川取水樋門

中島公園に移転前の[豊平館]
写真左の建物が中島公園に移転前の[豊平館]。
(所蔵 北大付属図書館写真集 北大百年より転載)


1935年当時の創成川の様子です。[望楼]が遠くからも眺望できました。
所蔵 札幌市公文書館

現在の創成川

札幌のシンボルとして歴史とともに歩み続けてきた[創成川]も2000年代に入り数年にわたる大改修工事がおこなわれ2011年4月1日改修工事を終え新生創成川としてデビューしました。新たに南4条から北1条間の両岸は創成川公園として生まれ変り、憩いの空間として野外彫刻、イベント広場等などが整備されています。
創成川の始発点 創成川の川下を俯瞰
狸二条広場 大友亀太郎像
整備された創成川 スノーリング

詩碑[創成の川]
新装なつた創成川公園の北1条橋遊歩道に詩碑[創成の川]が建立されました。詩碑の詩文は詩人の原子修氏、書は書道家の中野北溟氏で、碑は縦1.2m、横1.8mの黒御影石で作られています。

[創成川公園]の詳しい画像は下記をクリックしてください。

[創成川公園]

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