新渡戸稲造生誕150年記念展

札幌夜学校の創設を始め国際的な活動などでよく知られる新渡戸稲造博士生誕150年記念展が、博士とも縁の深い札幌時計台(かっての札幌農学校演武場)で、12.8.31日から10.8日迄開催されました。パネル17枚に博士の少年時代から始まる生涯の様々な活動が記事として紹介されています。主なテーマをあけると[少年時代の新渡戸稲造博士][新渡戸稲造博士と時計台][家庭人新渡戸稲造博士][札幌農学校教授時代][新渡戸稲造博士の知られざる一面][国際人 新渡戸稲造博士][新渡戸稲造博士と遠友会学校][新渡戸稲造博士と旧5.000円]等などです。
これらのパネルの中から抜粋して紹介します(記述はすべてパネルの記事を引用しています。また。写真はパネルからコピーしていますので不鮮明な点はご容赦願います。

少年時代の新渡戸稲造博士

渡戸稲造博士は、1862年(文久2年)9月1日、南部藩士新渡戸十次郎・せきの三男として盛岡に生まれました。父十次郎は南部藩の重臣として活躍していました。幼い頃はわんぱくで、好奇心が強く、口達者で頓知に優れており、祖父傳(つとう)は[この子は正しく導けば国家に役立つ著名な人士になるであろうが、万一間違うと恐ろしい悪党になりかねない]と手紙に書いています。幼い頃からかかりつけの医師に英語の手ほどきを受けていましたが、1871年(明治4年)10歳で父の弟太田時敏の養子となり太田姓を名乗り東京に出て南部藩学共慣義塾で学び、次いで1873年(明治6年)東京外国語学校に入学し英語の勉強に励みました。祖父と父は青森県三本木(現在の十和田市)の開拓に尽くし、その影響もあり開校したばかりの札幌農学校への入学を決意し14歳で入学試験に合格しました。しかし年齢が規定により若かったため、次の年2期生として入学が許可されました。

新渡戸稲造博士と時計台

新渡戸稲造博士は、1877年(明治10年)15歳で札幌農学校に2期生として入学しました。1881年(明治14年)2期生10名の卒業式が時計台で行われ、博士は英語でスピーチをしています。博士が卒業した年の8月に時計塔が付けられ札幌の街の四方に毎正時毎に鐘が鳴り渡りました。アメリカ・ドイツから帰国後、母校札幌農学校の教授を勤め、毎週土曜日時計台二階で行う博士の説話は生徒の精神形成に大きな影響を与えました。博士にとって時計台は生徒として学び、教授として生徒を教えたゆかりの深い建物と云えます。

家庭人 新渡戸稲造博士

農学校生徒の時にキリスト教に入信していましたが、留学中ボルモチア市でクエーカー教徒となり、フイラデルフィア市の集会で後で結婚をするメリー・パターソン・エルキントンと知り合いとなりました。ドイツ留学中にもメリーとの手紙のやりとりが続けられ婚約をしましたが、この当時は国際結婚への理解が少なく、双方の側から強い反対にあいました。しかしメリーの結婚への決意は固く、父の承諾を得ることなく1891年(明治24年)元旦にフイラデルフアィアで結婚式を挙げ帰国しました。メリーは[万里の波涛を乗り越えてきた]と云う意味を込めて日本名を[万里子]とつけました。1892年(明治25年)二人の間に生まれた長男遠益(トーマス)を亡くす悲しみがありましたが、二人は良き理解者として終生変わらぬ愛で結ばれていました。万里子夫人は博士の良き理解者であり博士の理想とする教育遠友学校の開設、体を悪くした博士のアメリカての療養生活も夫人に負うところが大きかったようです。更に名著[武士道]は、万里子夫人が日本の思想や習慣についてその理由を質問し博士がそれに答える事も執筆の一つの契機になつたと序に書いています。写真で見る印象とは異なりユーモアに富んでおり、博士の家庭は笑い声がいつも絶えなかったと云われています。

札幌農学校教授時代の新渡戸稲造博士

1891年(明治24年)帰国後札幌農学校教授となり、農政学、植民農業史などの農学と共に英文学、ドイツ語なども教えました。授業で尤も人気があつたのは倫理で、毎週土曜日に時計台(演武場)で行われた博学で清新な人柄からほとばしる説話は、若者たちの魂を引きつけ生徒たちに強烈な精神的感化を与えました。また、生徒と接する事が大好きで授業のほかに予科主任、教務主任や寮の寮監なども務め生徒のため寝食を忘れ問題解決にあたりました。博士は農学校生徒の時からクラーク博士の教えの禁酒・禁煙。賭けごと禁止の3つの近いを固く守っていましたので、学生の規律にはきわめて厳しく飲酒者は退寮させられました。教えた子からは後の北海道大学3代学長高岡熊雄をはじめ有島武郎、半沢洵、森本厚吉など数多くの人材が育ちました。更に農学校の教授だけでなく北海道庁の技師の兼務を始め、農学校の予備校的役割の北鳴学校校長、遠友夜学校校長、札幌史学会会頭などを務めました。その休みない活動により病に倒れ1897年(明治30年)療養のため札幌を離れ、翌年教授を辞任しました。

新渡戸稲造博士の知られざる一面

留学から帰国した翌年1892年(明治25年)に設立された札幌史学会会頭になっています。当時の札幌では、1891年(明治24年)宮部金吾会長の[札幌博物学会]1896年(明治29年)の[北海道人類学会]等が相次いで発足しています。札幌史学会は、1896年(明治29年)札幌の地理、維新前とその後の歩みを纏めた[札幌沿革史]を発行し、博士が会頭として緒言を書いています。博士が留学から帰国した時、3足のスケートを持ち帰り学生に貸し与えました。また、ヨーロツパの男女がスケートに興じる有様を語りスケートを奨めました。やがて中島公園や道庁の池でスケートをする人が増え1894年(明治27年)には札幌スケートクラブが結成されました。札幌にスケートを広めたのは博士であると云われています。

国際人 新渡戸稲造博士

ジョーンズ・ポプキンス大学蕞書として[日米関係史]を刊行したのをはじめ、日本研究に役立つ多くの英文の著作を発表しました。中でも1899年(明治32年]刊行の英文[武士道]は、日本人の精神文化を伝える名著として11ケ国語で出版されベストセラーとなり、アメリカ第26代大統領ルーズベルトやエジソンも愛読し、博士の名を一躍国際的に高め、日本人の国際的地位向上のため大切な役割を果たしました。1911年(明治44年)第一回日米交換教授としてアメリカで講演旅行を行うなど日本の国際化に努めました。1919年(大正8年)からは第一次世界大戦後設立された国際連盟の事務次長として8年間勤務し、私利私欲にとらわれない行動と言動で[連盟の良心]と云われた程信頼が厚く世界平和推進に貢献しました。

教育者 新渡戸稲造博士

母校札幌農学校の教授と共に北鳴学校、遠友夜学校校長を兼務し、更に北星大学の前身であるスミス女学校でも教えていました。農学校を辞めた後は、京都帝国大学教授、第一高等学校(後の東大教養部)校長、東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学学長、東京女子経済専門学校(現新渡戸文化学園)校長を務め、人格、社会性、教養を重視した教育によって教育界に大きな影響を与えました。また、女子教育にも力を尽くしました。第一高等学校校長を8年間務め[新渡戸以前に一高校長なし、新渡戸以降に一高校長なし]と云われる程生徒たちから敬愛されていました。第二次大戦ご日本思想界をリードする後の東京大学総長南原 繁、矢内原忠雄をはじめとする多くの人々の人各形成に大きな影響を与えました。

新渡戸稲造博士と遠友夜学校

博士はアメリカ留学中に親友宮部金吾博士あてに手紙で理想とする三つの学校を作りたいと書いています。一つは、老人・成人のため、二つ目は、専門学校で大学進学希望者のための、三つ目は、貧しい人々の子供たちの学校です。第二の学校は、後に博士が校長になった北鳴学校によって達せられました。第三の希望は、万里子夫人の実家の関係者から送られたお金によって1894年(明治27年)に遠友夜学校が設立されました。遠友学校とは論語の[友あり遠方より来る]から名づけられ[アメリカ合衆国大統領リンカーンに学べ]を基本とし、農学校の教授や生徒が先生となり教えました。博士が札幌を離れた後、親友宮部金吾博士に引き継がれ後には学生時代博士の家に奇遇していた予科教授有島武郎が代表を務めています(註)遠友夜学校跡地(中央区南4条東4丁目)にあった展示室は平成23.10.04日札幌資料館2階に移転しています。

第二次世界大戦前の日本を代表する国際人・教育者で2004年(平成16年)まで5.000円紙幣の肖像となっていた新渡戸稲造博士は、札幌農学校を卒業しました。札幌農学校は博士にとってキリスト教に基礎を置き人格と広い学識を身につけた[精神的誕生の地]であり、戸の様な博士の功績により世界の人々に日本人の国際的地位が高められたと云っても過言ではありません。また、社会人として新渡戸稲造が選らばられ他5.000円には、現在発行中の詩兵の表面はすべてが左側に関数字の額面、中央に透かし、右側に肖像などの絵になっていますが、この五千円券は、額面と透かしの位置が入れ替わっています。このデザインは、現在では之が最後となつて肖像と透かしでは新渡戸稲造の髪の分け方が反対になつています。また、額面の下には太平洋が描かれ、裏面には本梄湖の湖面に富士山が映る逆さ富士が描かれています。これは岡田紅陽の[湖畔の春]と云う写真を基に描かれています。湖面に富士山が映る光景は年に1・2度しかないと云われ貴重との事です。