大友亀太郎

プロフイール

札幌の都市造りの基となった[大友堀]で知られる、大友亀太郎(おおともかめたろう)は、1834年(天保5年)相模国(現在の神奈川県)下足柄郡西大友村の農家に生まれました。20才代には二宮金次郎にも師事していました。1858年(安政5年)亀太郎は箱館在住を命ぜられ、箱館に近い木古内村や大野村に農民を迎かえ入れて8年間にわたり村造りに努力しました。その後1866年(慶応2年)石狩地方の開拓を命ぜられ、元村(現在の北区元町)一帯を選定して開発を進める事となりました。
所蔵 北大付属図書館[明治大正期の北海道写真編]より              転載

お手作場の開業と農業基盤の整備

札幌村記念館記念館展示室
写真は現在の[札幌村郷土記念館]です。この場所は大友亀太郎の役宅が有った場所で[役所]と呼ばれていました。1860年に[荒井金助]が[荒井村]を開村しましたが、遅れること6年、大友亀太郎が現在の東区に[御手作場(箱館奉行所直営農場)]を開き、[大友堀]を開削して、本格的な農業の基礎を築きました。大友亀太郎によって基盤が作られた札幌村の農業は、雑穀から果樹栽培を経て、玉ネギ栽培へと移行して、我が国の玉ネギ栽培の先進地として発展を遂げています。今日の東区発展の基礎を作ったのは大友亀太郎であり、札幌開拓の先駆者としてその業績の数々がこの記念館に展示されています。大友亀太郎が最初に入植したのは[元村]ですが、明治4年に[苗穂村][丘珠村][札幌新村]が元村が合併して[札幌村]となりました。

亀太郎が開削した[大友堀]

大友公園の地図
[大友亀太郎]が計画した用水路は、豊平川の支流から水を引き、現在の南3条東1丁目から真っ直ぐ北に延び、北6条東1丁目から北東に進路を変えて、彼の作った[御手作場]に流すもので、現在の[大友公園(北13条東16丁目)](写真右図)あたりで[旧伏古川]に注いでいました。[用水路]の長さは約4qで規模は[深さ]が約1b50aで巾は1b80aありました。この工事は当時としては大工事で、人々は[百万両の大工事]と呼んでいたそうです(所蔵 北大付属図書館)。完成後、大友亀太郎に因んで[大友堀]と呼ばれる様になりましたが、この堀が農業面ばかりでなく、運送路としても利用され、また、この堀を使って札幌市内への物資が運ばれていました。現在はこの堀の下流は埋め立てられ道路に変わっていますが、南3条から北6条付近までは[創成川]としてその姿を留めています(写真 上左図 所蔵 北大付属図書館)
2013年改装なった創成川には中心部に[創成川公園]も造営されました。創成橋の袂には大友亀太郎の像も戻つてきました。

札幌タマネギ記念碑記念館の前庭には[札幌タマネギ記念碑]があります。碑には[我が国の玉葱栽培はこの地に始まる]と刻まれており、台座の説明文には次のように記されています[日本の玉葱は明治4年開拓使が米国から種子を輸入して札幌官園で試作した後多くの苦心が重ねられた。明治30年代には札幌村に始まった玉葱は次第に近村に広がり篠路、白石村を含めた大産地となる。札幌特産として全国に出荷されるばかりでなく、広く外国にも輸出されてその名声が一段と高まった]。このように大友亀太郎によって開発が進められた札幌村は、現在札幌市の東区として地下鉄も走り住宅も密集する郊外住宅地として発展を遂げていますが、少し外れると玉ねぎ畑が広がる田園風景を醸し出しています。