対馬嘉三郎

プロフイール

札幌市の前身は札幌区です。北海道に区制が施行されて23年間の区制時代を経て大正11年市制がひかれました。初代の区長を務め札幌区の経済産業面で大きな役割を果たした対馬嘉三郎(つしまかさぶろう)は、1836年(天保7年)11月に陸奥国(現在の青森県)弘前代官町で津軽藩士対馬利助の長男として出生しました。明治4年の廃藩置県で青森県の役人となりましたが翌5年には開拓使に出仕しました。開拓使での嘉三郎は、商工業の振興に関する行政に取り組みました。当時の札幌は札幌府としての街造りが著についた段階で開拓使は札幌を北海道の工業基地とするため、明治5年には創成川(大友堀)東側の敷地に工業局機械所を設置、翌明治6年には、開拓工業局を建設しました。所蔵 北大付属図書館

工業局機械所



現在の大通-北2條間の東1丁目から東5丁目までに工場地帯を作りました。写真(上)は工業局の構内の様子と工業局舎(下)。所蔵 北大付属図書館



開拓工業局

開拓工業局は、道路、橋梁、官庁、学校などの建設を始め家財、機械、農具、車両等の製造業を行い開発に大きな業績を遺しています。写真は、現在[開拓の村]に保存されている建物で昭和44年に復元されたものです。

(北海道立開拓記念館所有)

嘉三郎の事業展開

商業面においても大きな変化が生まれつつありました。開拓使は[御用達]制度を廃止して、これまで用度係で扱っていた酒や味噌醤油などの生活物資の仕入れを廃止して、商人の自由営業を認める事としました。このような情勢の変化に対応して嘉三郎は明治11年7月には開拓使から退官し、同年9月にはこれまで官業だった味噌・醤油醸造所の払い下げを受けこれを生業とすることにしました。払い下げを受けた時の味噌醸造所は[厚田通(現在の北2条)]に、醤油醸造所は[空知通(北6條)]に建設されていました。この他にも明治20年嘉三郎は、水車・蒸気両機械所、木工所、等を始め多くの払い下げを受けたため資産は大きく増大して実業界に大きく羽ばたく土台を作り上げました。北海道製麻会社、北海道炭坑鉄道株式会社、北海道電灯舎の設立なども嘉三郎が中心に展開した事業です。大正3年12月24日転住先の東京で交通事故の為不慮の死を遂げました。

払い下げを受けた偕楽園と清華亭


明治31年、初代北海道長官岩村通俊は、偕楽園と清華亭を嘉三郎に払い下げしました。[清華亭]は、偕楽園の中に、開拓使が貴賓接待所として建てたものです。約8ヶ月の工事により1880年(明治13年)に竣工しました。翌年には明治天皇の札幌行幸の際のご休息所ともなり、現在の敷地の中に記念碑が建立されています。[清華亭]という名前の由来は、当時の開拓使長官黒田清隆が名付けた[水木清華亭]ですこの建物は和洋両様式で外観は洋風で統一されています。この建物は豊平館と並行して建築が進められ、演武場(現在の時計台)と共に我が国で少ない開拓使建築の遺構として貴重な建造物となっています。嘉三郎はこの場所を接待所として使っていました。 所蔵 北大付属図書館

初代区長 対馬嘉三郎



明治32年10月から札幌、小樽、函館に区制が施行され初代の札幌区長には対馬嘉三郎が任命されました。嘉三郎60才の時です。彼は区長在任2年5ヶ月で終え明治35年5月に退任しましたが、在任中は、特に工業を中心とした商工業都市を目指して工場の誘致や勧業施設の建設に努めています。嘉三郎が就任当時の区役所は、札幌県庁の中にありました。明治42年に新しい区役所が、北1條西2丁目に落成しました。
 所蔵 札幌市公文書館[札幌市写真帳]より転載

初代札幌商業会議所会頭に就任

札幌商工会議所の前身は[商業倶楽部]ですが、明治39年10月9日で認可され、当時71才の長老である対馬嘉三郎が初代の会頭に選任されました。設立当時の建物は元札幌農学校の校舎を改築したものです。写真は札幌区1条西2丁目に落成した[札幌商業会議所]です。嘉三郎は、区長退任後幾度か国政選挙に立ち当落を繰り返していましたが、三回目の選挙で落選し政界から引退して札幌商工業発展の為に尽力されました。 所蔵 札幌市公文書館[札幌開始50年記念写真帳]より転載