村橋久成・中川清兵衛

プロフイール

開拓使の産業振興策の中でも[開拓使麦酒醸造所]は、現在の北海道ビール業界発展の基盤となりましたが、この生みの親の一人が村橋久成(むらはしひさなり)です。村橋久成(1840年-1892年)は、薩摩藩主島津家一門、加治木島津家の分家に生まれました。1865年藩の留学生としてロンドン大学に学び、帰国後の1871年黒田清隆が次官を勤める開拓使に採用され麦酒醸造所建設の責任者となっています。当初の計画では建設地が東京でしたが、北海道での建設を強力に主張した村橋の意見が入れられて札幌での建設が決まりました。
現在のサッポロビール生みの親として語り継がれているキーマンは村橋成久ですが、彼と同じく技術面での最大の功労者が中川清兵衛(なかがわせいべい)です。彼は1848年(嘉永元年)三島郡与板町で生まれましたが慶応元年、村橋がイギリスに渡った年に横浜のドイツ商館に勤務していた中川も密出国して渡英しました。その後1872年(明治5年)ドイツに渡り、ティボリ工場で2年2ケ月ビール醸造技術を修行しました。彼の勤勉な働きぶりと技術の取得に対して修業証書が渡され、1875年5月帰国しました。所蔵 北大付属図書館

開拓使麦酒醸造所の開業

醸造所変更稟議書開拓使が当初建設を予定していたビール醸造所は、[東京の官園内]でした。これに猛然と反対を唱えたのが村橋でした。彼は[北海道は気候もビール製造に適していて、氷や雪がたくさんあるのも都合が良い。東京に試験的に建設するのではなく、最初から札幌に建設することにしたい。至急評議の上決定してほしい]という趣旨の[醸造所建設の変更、札幌への変更稟議]を提出し、このことが札幌へのビール醸造所建設を決定づけたのです。開拓使の決定を覆した村橋久成は、ビール産業の方向を大きく変化させ、今日の札幌発展の基盤を作った先人の一人です。
開業式開拓使は、1876年(明治9年)9月23日、総工費8,348円(現在のお金で換算して約1億円)をかけて開拓使麦酒醸造所を開業しました。当時の札幌は、人口僅かに3,000でしたがこの荒涼たる原野に北海道で初めてのビール工場が誕生しました。現在の、サッポロフアクトリーの場所ですが、現在は、かっての工場が資料館となって保存され、当時の煙突が思い出を留めています。
所蔵 北大付属図書館
冷製札幌ビール開拓使麦酒醸造所で製造された最初のビールは、冷製[札幌ビール]と名付けられ明治9年9月に発売されました。[冷製]とは、ドイツの製造法で低温熱成させたビールでこれらの技法は中川がドイツで学んだものでした。ラベルには、開拓使のシンボルである[北極星]が描かれ、このマークは現在もお馴染みのマークとなつています。

[開拓使麦酒醸造所]から[札幌麦酒醸造所]へ

開拓使によつて開業した[開拓使麦酒醸造所]の創業時の生産高は年産100石に過ぎませんでしたが、その後、1880年(明治13年)には330石までになりその後も量産体制に努めてきました。明治15年には、農商務省の所管となり、次いで明治17年には[札幌麦酒醸造所]に改称されています。開拓使のビール醸造所は、1886年(明治19年)官営から民間に払い下げられ、大倉喜八郎の経営に移りサッポロビールの誕生となりましたこの写真は、民間に移管後の明治25年当時の麦酒工場の外観です。所蔵 北大付属図書館
(註) 写真は所蔵名表示を除いてはサッポロビール博物館の展示パネルより転載しました。

村橋久成の胸像

この胸像は、[村橋久成像 残響]です。この像は、北海道開発縁の場所でもある、北海道知事公館の前庭に建てられています。このブロンズ像は、高さが77センチあり、制作は彫刻家中村晋也さんです。2005.9.23日、サッポロビールの開業記念日に除幕式が行われました。