今井藤七

プロフイール

札幌の百貨店の老舗と言えば、地元デパートの雄[丸井今井]です。このデパートの歴史は古く、そのルーツは、1874年(明治7年)今井藤七(いまいとうしち)が26才の時に札幌で今井呉服店を開業したことに始まります。藤七は、1849年(嘉永2年)現在の新潟県三条市で生まれ、1871年(明治4年)北海道に渡りました。藤七はその後呉服店を振り出しに年々事業を拡大し、1916年(大正5年)には、丸井今井百貨店を開店し今日の丸井今井の基盤を確立しました。藤七は、1925年(大正14年)享年77才で死去されましたが、藤七が自らの処世訓として実行してきた、[お客を大切に親切に、清く正しく信用第一][お客は父、問屋は母、店方の情誼は篤く鄭重に][事業は人なり、慈愛で導け]などは、藤七亡き後も丸井今井のバツクボーンとして受け継がれて来ました。藤七は、丸井の創業者としてのみならず、札幌の流通業界の草分けとして今日の発展の基盤を築いた先人の一人でもあります。
[北海道十字の光]より転載 所蔵 札幌市公文書館

今井呉服店の開業

写真左図は、1874年(明治7年)藤七が開業した[今井呉服店]です。藤七が呉服店を開業したのは、現在の南1条西1丁目ですが、当時の地名は[渡島日高通、西創成通]で、西2丁目の[胆振通]には[胆振川]が流れていました。(所蔵 札幌市公文書館[丸井今井百年の歩み]より転載)。写真右図 (所蔵 北大付属図書館)は、1881年(明治14年)札幌頓宮前より西南を望んだものですが、中央の広い道路は現在の南1条で当時は[渡島日高通]と呼ばれていました。当時今井呉服店が大きく発展するきっかけとなつたのは[正札販売]でした。業績の拡大により店舗の大拡張を行い、1887年(明治20年)には新たに洋物専門の今井洋物店を開業しました。これは、黒田開拓次官が欧米式の生活様式を採用してこの普及に努めたため、洋品雑貨の需要が急速に伸びた事にも起因しています。このように藤七の経営は順風満帆の状態で推移し、札幌ばかりでなく北海道の主要地区に店舗を開設するなど、北海道の流通分野の発展にも大きな功績を遺して来ました。
写真(左図)は、1897年(明治30年)当時の繁栄する丸井を象徴する様子です(札幌市公文書館 所蔵)。

北海道初の百貨店誕生

時代が進んで我が国の経済も自給自足経済から商品経済に移行する中で、東京、大阪地区では続々と百貨店が誕生しつつありました。このような時代の流れを見て藤七は百貨店開設を志し、1915年(明治4年)から建築工事に着手し、翌16年(大正5年)10月1日、北海道で最初の百貨店が誕生したのです。デパートは、れんがと石材構造の総3階建てで、これまでの座売り方式から陳列形式に変わり、特に食堂は物珍しく連日市内外から多くの客が訪れました。(所蔵 札幌市公文書館)


この百貨店も大正13年12月28日の夜漏電により出火して焼失するという惨事に見舞われましたが、2年後の大正15年4月には、総4階一部5階建の新館が再建され、5月13日から営業が再開されました。所蔵 札幌市中央図書館


その後の経緯については別項[札幌の今昔記 丸井今井呉服店から札幌丸井三越へ]をご参照下さい。
1972年開催の冬季オリンピック札幌大会で、札幌の都市基盤の整備が進み近代都市化は急速に進められましたが、中でも商業基盤の拡大は目をみはるものがありました。これまでの地元デパートに対して中央からのデパート、大型店の進出はすざましく、現在札幌中心部では、これまでの三越、丸井を核とする大通圏と大丸、東急を核とする駅前圏が激烈な流通戦争を展開し大きく争っています。丸井今井デパートの長い歴史の中では様々な起伏がありましたが、激変する流通業界の中で丸井今井も三越と合併して新しい一歩を踏み出しています。丸井今井の今日の基盤を造つた原点は今井藤七の実業人としての商道に徹した経営方針であり、今後ともこの精神を引き継いで貰いたいものです。