偕楽園緑地 北区北6-7条西7丁目

かって開拓使時代このあたりは[偕楽園]として[育種場][仮博物場][競馬場][清華亭]などがあった開拓縁の地でもあり、啄木が札幌で下宿していた場所からも約300メートルの場所です。JR函館本線の高架か直ぐそばを走り、廻りはビルと住宅街ですが、現在も[偕楽園緑地]として遺されています。



[清華亭]の邸内に展示されている[偕楽園]のミニチュア[偕楽園]です。[偕楽園]は、明治4年(1871年)開拓使による札幌本府の創建に際して当時の開拓使岩村通俊が建設したもので我が国最初の公園といわれていました。偕楽園は、公園の他に北海道で最初の工業試験場しも言うべき[製造所]、西洋の農業技術を実地に研究する生徒の宿舎である[生徒館]および温室、博物所などが設けられましたが、本道で初めての試みであるサケの孵化実験を行う孵化場もありました。
現在も保存されているのは[清華亭]のみです[清華亭]は、明治13年(1880年)建築され翌14年には明治天皇巡幸の際の休憩所にもなっています。この[偕楽園]は、明治30年(1897年)には民間に払い下げとなりました。現在はその一部が[偕楽園緑地]として遺されているのみです。
下図は現在の[偕楽園緑地]から見た[清華亭]の姿です。





現在の[偕楽園緑地]は、住宅地に囲まれた中で偕楽園時代の面影を残すように自然のままの状態で遺されています。





[偕楽園緑地]に2012年[石川啄木の歌碑]が建立されました。
歌碑の隣には案内パネルが掲示され、その左サイドには[石川啄木の歌碑]右サイドには[寄付者名]が書かれています。石川啄木の歌碑には大凡次の様に記述されています[国民的歌人の石川啄木(1886-1912)は、明治40年から1年足らずであるが函館・札幌・小樽・釧路を生活のため北海道を流浪した。啄木が札幌駅に降り立ったのは明治40年9月14日である。翌日には市内の大通、創成川付近を散策しその印象を日記に残した。
アカシアの街樾(ナミキ)にポプラに秋の風
吹くがかなしと日記に残れり

この歌は、啄木の代表的歌集[一握の砂](明治43年発行)に掲出されている一首である。啄木が札幌に滞在したのはわずかに2週間に過ぎないが、札幌の深まりゆく秋を情感豊かに謳いあげた秀歌として知られる。今年は啄木が27歳で東京で没し100年の記念すべき年にあたると共に、[札幌啄木会]結成10周年の年でもある。啄木の文学的偉業を顕彰し、後世に語り継ぐためここに啄木歌碑を建立する 平成24年9月15日]。