藻南公園 区川沿9~11条1丁目・ 真駒内柏丘7・8・12丁目


[藻南公園]はかつては[おいらん淵]と呼ばれていましたが、昭和24年に現在の名前が付けられました。ここは豊平川の中流でこのあたり一帯は、今から約3万2千年前に支笏火山(現在の支笏湖)から流れてきた軽石流がここで止められたと言われています。その為か川の一方は札幌軟石の断崖が続き雄大な景観を描いています。また、川幅も広く深い淀みが出来激流が渦を巻いています。
この公園の広さは296.585㎡と広大で豊平川を挟んで南・北両域に跨っています。南域にはスポーツ施設がありますが、藻南公園として市民に知られているのは北域です。札幌市内の小学校の遠足の定番コースです誰もが一度は経験されている公園でもあります。
[左図参照]
この公園に行くには札幌の中心部から[国道230号]を定山渓方面に進み左折して[川沿石山連絡路]を支笏湖方面
に行きますがこの連絡路を[藻南シンボルロード]と名付けています。
下図左は[藻南シンボルロード]入り口のモニュウメントで右図は[もなみばし]です。
(註)このMAPは藻南公園管理事務所のホ-ムページからお借りしました。


[藻南橋]から望む豊平川



歩道脇の標石です。ここから藻南公園が豊平川の河畔まで拡がっています。広々とした芝生広場や炊事広場に加えて豊平川の清流と野生美溢れる水景を楽しむ事が出来ますが、この公園がかって[おいらん淵]と呼ばれていたことからも悲しい一面を抱え続けた歴史を偲ぶ公園でもあります。

芝生広場


炊事広場



[藻南公園]は南区の[藻岩地区]にある公園です。現在の[藻岩地区]はかっては[八垂別]と呼ばれていました。この地区の開拓は、明治5年(1872年)に発見された硬石山の札幌硬石の採掘に始まります。この碑は藻岩地区の開基110年を記念して、同記念行事協賛会が、昭和57年(1982年)8月に建立したもので中央には開拓家族のレリーフが描かれています。

[おいらん淵]
[伝説・おいらん淵]は、豊平川の藻南地区にある[藻南公園]の中に標識が建てられています。この公園は豊平川沿いの中でも特に景観の美しい処です。この一帯は約3万2千年前の支笏火山(現在の支笏湖)から流れてきた軽石流がここで止められたと言われています。藻南橋を渡って公園に入ると程なく左図の様な案内板があります。 この公園は昭和24年に造園され今の名前が付けられましたが、以前 は[おいらん渕]として知られていた場所です。
この名前の由来について案内板には次の様に書かれています。
(要旨)[右手花壇広場の崖下 河原に佇立している岩の付近をおいらんふちと言う。この渕、豊平川の流れの中でも最も深く、又渦も清らかなよどみであった。明治の末期吉原より身請けされてきたおいらんが話と違う余りの寂しさに世をはかなみ着飾って身を投じ、短く哀しい一生を終えたという
話からおいらん渕と言われるようになった(中略) この渕の断崖絶壁を眺めているとその昔おいらんと言う不幸な運命を背負った女性が 身を投じたという話に実感がこもってくる]
★この名前の由来については[かつて上流から船で木材を運んでいた商売人たちが、ちょうどこの辺りになると、決まって「花魁」の話をすることから、いつの間にか「おいらん渕」と呼ばれるようになったのだという]別の説も有るようですが俗説として扱われているようです。


上の様な伝説をとは直接関係ありませんがこの公園に建立されている[宝性地蔵尊]です。
この石像は戦後、この公園に遊びにきていた3人が水死するという事件がありましたがこれを契機に、[おいらん淵]の水死者の供養のためにと昭和25年(1950年)10月に宝流寺仏教婦人会の手によってに建立されたものです。





前述の[おいらん淵]の由来で書かれている[明治の末期吉原より身請けされてきたおいらん]は開拓使による[札幌本府]の建設に深く関連しています。
[すすきの(薄野)]の歴史は明治2年開拓使がおかれ札幌本府の建設が始まった時期に遡ります。
開拓使による札幌本府建設前まで定住者わずか 13 人だった札幌は、本府の建設作業に携わる労務者約1万人が集まり、俄かに活気を見せていましたが、彼らのほとんどは、一稼ぎし終えると本州に戻る傾向が強いため時の開拓使判官・岩村通俊は労務者対策として官営の遊郭設置に動き始めたものです。1871年(明治4年)、市街地建設に集まった数千人の職工や作業員の足止め策として、南4条から南5条の西3丁目-4丁目の二町四方に官許の[薄野遊郭]を設置しました。当時の記録によると散在していた女郎屋 7 軒を、現在の南4条~5条、西3丁目~4丁目の2町四方4ブロックに集め、周囲には高さ 4 尺の壁を巡らせ、出入りの大門も設置した大規模な「薄野遊郭」だったようです。記録によると最盛期の明治40年頃には遊郭が32軒、遊女は372ほどいたと書かれています。下の写真は有名をはせた[高砂楼(左図)][南里の西花楼(右図)]です。所蔵札幌市公文書館



このような娼妓を供養しているのが当時[遊郭]があったススキノの豊川稲荷札幌別院です。寺院内には辻の様なパネルが掲示されています。[薄野娼妓並びに水子哀悼碑設立のいわれ 薄野は明治4年、当時の判官により開拓労務者の[足止め策]として薄野遊郭を置いたのが起源であります。その開拓を支えた遊郭の娼妓たちを供養し、更にはその陰にある水子と現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事堂垣内尚弘さんから碑文を頂き建立した]と記されています。