永山記念公園 中央区北2条東6丁目

この公園が整備されたのは1986年(昭和61年)で、札幌市による歴史的まちづくりを目的とした旧永山武四郎邸周辺の再開発事業が開始され、邸宅とその周りを囲んでいる庭園を譲り受け整備事業がスタートしました。整備が始められた翌1987年には永山武四郎邸は
北海道指定有形文化財の指定を受けこれに合わせて庭園やその周辺地域の整備や邸宅の修復・修繕工事が行われ記念公園が設立されました。公園は北2条と北3条に跨り旧永山邸を中心に静かな森の中に芝生が広がり市民の憩いの場としても活用されています。隣接する旧札幌ビール跡地には大型複合施設
[サッポロフアクトリ]もあり観光sポットとしても一躍脚光を浴びるエリアとなりました。











左は永山武四郎です(所蔵札幌市公文書館[喜久の薫]より転載)。
永山武四郎は、天保8年(1837年)薩摩(現在の鹿児島県)藩士永山盛広の4男として生まれました。明治4年(1871年)陸軍大尉となり翌明治5年には渡道して当時の開拓時間黒田清隆の下で屯田兵の創設などに携わり、その後明治11年には屯田兵事務局長を務めました。明治21年には岩村長官の後を引き継いで第二代北海道長官を兼任して明治24年までその職にありましたが、兼任を解かれた後は屯田兵司令官となり、明治29年第7師団が設置されるやその初代師団長となりましたが、明治33年退役し、明治36年貴族院議員になりましたが翌37年に死去しました。

旧永山武四郎邸



上図は札幌繁栄図録 所蔵 財界 さっぽろ
左図の説明文は邸内の案内パネル[旧永山武四郎邸の創建と沿革]です。

永山邸の特徴
旧永山邸の特徴の一つは、和室と洋室が隣り合わせに造られている事です。当時洋風を取り入れる場合本館とは別棟に併設したり廊下を介して設置する事が普通でした。旧永山邸におけるこの様な和・洋室が直接隣合わせはかなり異常な手法であって、洋風導入過程での一つの試行形式と云う事が出来ます。旧永山邸は、また、開拓使時代の建築の特徴を示す建物です。更に建物の内外の造作が優れており保存も良く、一般住宅の遺構としては北海道の最も古いものの一つです。
(註)この説明文はパネルのから引用しました。











(註)旧永山武四郎邸は平成28年4月1日より保存活用工事のため平成30年春まで休館となります。

開拓使時代の面影を留める北3条通


道路脇のパネル[北3条通の歴史]です。
[北3条通は、古い歴史を持つ街路です。明治初期北海道開拓使(現道庁正門)を起点とするこの通は[札幌通]と呼ばれ、重要な位置を占めていました。北3条通を軸とした市街地形成の歴史は古く、明治21年に落成した道庁赤レンガ庁舎を始め、北大の前身札幌農学校、開拓使の官営事業であった紡績場、製網場、味噌製造所、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所などが立ち並んでいました。また、札幌で最初の総合病院であった札幌病院、第二代北海道庁長官永山武四郎の邸宅などもあり、大正時代は市電も敷設されています。これらの事から当時から重要な広域幹線だった事がうかがえます]。
現在も道庁赤レンガ庁舎、札幌農学校演武場跡碑、味噌製造所跡(旧福山商店)、麦酒醸造所跡(サッポロフアクトリー)等が思い出を留めています。

[北三条通]は、通称[開拓使通]と呼ばれ、この通には開拓使時代の遺産が多く遺されています。この開拓に大きな力を発揮したのが[ホーレス・ケプロン]でした。
ホーレス・ケプロンは1871年に開拓使顧問として来日し、日本滞在の3年10ケ月の間に北海道開拓に関する様々な活動に取り組んだ方です。かってこの北3条通りには市電も走り、札幌の産業の中心となったビール工場を始め醸造、製菓など多くの工場があり、産業の街としても発展を続けたエリアです。開拓使時代は[札幌通]と呼ばれていました。今回の構想は道庁赤レンガ広場から永山武四郎記念公園までの約1キロにこの通りの名前を付けようとするものです。札幌も年々都市化して昔の面影が全く感じられない大都市となりましたが、先人の苦労を偲び今日の発展の基礎を築いた功績を忘れない事はこれからも大変大切な事だと思います。
所蔵 北大付属図書館