創成川公園]は、札幌の中心を南北に流れる創成川の南4条から北1条(北2条通)に至る全長820mの川の両岸を整備したものです。かっての大友堀・吉田堀を母体とした創成川の整備は
創成川公園は「創成川通親水緑地整備事業」として着手したものでアンダーパス連続化によって新たに創出された地上空間は、創成川の水や緑、アート作品に触れることができる親水緑地空間「創成川公園」として整備され2011年デビューしました。
南4条から北1条の両岸は散策路として整備され多種類の樹木が植栽され、随所にオブジュエが配置されるなど水辺のアートギャラリー的空間です。
[創成川公園]の来歴
百万両の大工事」といわれた大友堀は、南3条付近にかつて流れていた胆振川を水源にしながら、北6条へ直進し、そこから東北に のびて札幌村(現在の東区)のフシコサツポロ川に合流しました。この水路が[大友堀]ですが、現在の南3条~南7条が掘削され、[吉田堀]と呼ばれていました。明治7年には現在の「創成川」と改称されたものです。(註)これらの歴史は拙著の他のサイトで詳しく紹介していますのでそちらの方もご参照ください。写真左
一の村新堀川(大友堀)所蔵 北大付属図書館 写真大友堀札幌の中心部 所蔵札幌市公文書館
1936年(昭和11年)当時の札幌消防本部の望楼です。記録によれば大通西1丁目に1927年(昭和2年)建設されました。鉄筋コンクリート造りで高さが43mあり、内部は暖房、エレベーター完備の当時としては東洋一の設備を誇った望楼だと言われています。しかし時代の進展とともに電話の普及や建物の高層化の影響でその本来の役割を果たす事が出来なくなり、1965年(昭和40年)解体されましたが、三岸好太郎の画題にも取り上げられるなど[創成川と望楼]は札幌のランドマーク的存在でもありました。
写真 所蔵 札幌市公文書館
改修を終えデビユーした[創成川公園]
[鴨々川]から分流した[創成川]は、南7条から一直線に市の中央部に向かって流れてています。
2011年3月、永年の改修工事を終えて[創成川]が新しくデビュー。更に南4条から北1条間の[創成トンネル]の地上部に[創成川公園]が4月1日オープンしました。総工費約21億円かけて造成された公園内には、安田侃さんの彫刻など芸術作品を始めイベント広場なども整備され、[親水空間]としての公園は新しい札幌の観光スポットととしても大きな脚光を浴びようとしています。
写真左図は公園の南端南4条橋から北方向を俯瞰したものです。右図は川底の敷石です。随所に敷石があり岸から降りて水面の散策が楽しめます。
写真左[北大通橋]からの俯瞰、写真右[南大通橋]からの俯瞰、正面に見えるのは[イベント広場].
[創成橋]から北方向への俯瞰です。
復元した創成橋
復元した[創成橋]です。創成橋の擬宝珠も長年の風雪で無惨な状況になりましたが、その復元の要望に応えて昭和53年から復元作業が行われました。左の写真は復元された高欄と擬宝珠です。
右の写真はこの橋の特徴である石造りアーチ橋の姿を写したものです。
創成橋は明治2年に架けられましたが、当初は丸太を並べ板を敷いただけの橋でした(写真下左図)又、下右図の橋は明治20年代のものですが、両側の高欄には擬宝珠が取り付けられていました。この擬宝珠は江戸時代は藩主のみが橋につけることを許されていたという格式の高いものだそうです。所蔵 北大付属図書館
復元された創成橋周辺のエリアは[歴史の広場]と命名され、[札幌建設の地]碑もこれまでのビルの一隅から河畔に移され、また、2005年から[札幌村郷土記念館]前庭に引っ越ししていた[大友亀太郎像]も今回創成橋の袂に戻ってきました。[大友亀太郎像]を中心に配し向かって左手には大友亀太郎の来歴を紹介したパネルを、右手には[札幌軟石の石橋]と[創成橋の親柱石]を設置しています。
[札幌建設の地]碑
橋の親柱石側に[創成橋の復元]というパネルが設置されています。ここには大凡次のように記されています[ここに架かる創成橋は、[技術を守る][形を守る][材料を守る][場所を守る]これらの事を基本的な考えとして建設し当時の姿を復元したものである。創成橋は明治43年に架橋され札幌市内に現存する最も古い橋梁であった。特筆すべきは、石造りアーチ橋でありながら石材の目地間や橋台部からあーち石上部にかけてコンクリートが充填されていると云う希少な構造形式であり、石造りアーチ橋から鉄筋コンクリートアーチ橋へと進化していく技術史の中でその橋渡し手的役割を担ったであろうと思われる。(中略)平成18年創成トンネルの建設により解体を余儀なくされたが、その歴史的価値に鑑み往時の姿で復元される事となった(以下略)]。
この碑は、関敏の制作で、高さ1,4メートル、スエーデン産の黒御影石を使い球状の上に東西南北を表徴する様にモチーフされています。台座は当時の札幌市長原田与作の書で次の様に書かれています。[この地は、銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路の交差点に当たり、明治2年11月10日、開拓判官島義勇石狩大府の建設をこの地から始めた。今日の札幌市はこの付近を基点として発達したのである]。
狸・2条広場(イベント広場)
公園内のイベント広場として年間を通じて様々なイベントが繰り広げられます。東側は道路を挟んで[二条市場]西側はこれも道路を挟んで[狸小路商店街]です。
アートで彩られた創成川公園
この公園には安田 侃(生誕・天秘・生棒)、西野康三(スノーリング)、団塚栄喜(再創生 -Re Creation-13点)の作品が点在しています。
安田 侃さんの作品
狸・2条広場に設置されている[生誕] [創成橋からやや北に向かった散策道に設置の[生棒]
創成橋から南に向かう東側の散策道入り口(写真左)と創成橋と南2条橋との中間の西側散策道傍に設置、
いずれも[天秘]。
西野康三さんの作品
創成橋から北に向かった創成川の両岸に跨って設置されている[スノーリング]です。
団塚栄喜さんの作品 再創成 Re Creation
左図No1[sasabune]南4条橋袂から川岸に降りる石段には[笹舟]の模様をあしあった銅板がはめ込まれています。(写真は合成したものです)。
右図No2[見えない架け橋][sasabune]の並びにあり、対岸の[見えない架け橋]と対になっていてそれぞれの煉瓦には挨拶の言葉が彫り込まれています。
左図No3[三日月湖]創成川の源流である石狩川で見られる三日月湖の形状をモチーフにしています。湖名と距離を表記しています。
右図No4
[SAPPORO CITY CRUISE]飛び石のように配置された舟型の煉瓦は、札幌周辺の様々な場所の方向を指し示し、名前や記号、その場所までの距離が彫り込まれています。(写真は合成したものです)。
左図No5 [SANCTUARY]四角形に作られた煉瓦の中央に豊平川河川敷の土壌を入れ、本来人が手を付けずに生まれる、植物の自然な姿がそこに育まれます。表示板には次の様に記されています[1866年来、ここは植物たちにとって再び聖地となる]。
ここにはNo6[TIME CAPSULE]を挿入する予定ですが所在場所を何度となく探しましたが見つけることが出来ませんでした。
後ひ改めて取材致しますのでご猶予下さい。
左図No7[TAKEKURABE]煉瓦の道の先が立ち上がり、子どもの背丈を測れるような目盛りや数字が彫り込まれています。柱の高さ169㎝は、1939年2月13日の観測史上最高の積雪量を示しています。
右図No8[時の飛び石]一つは新しい煉瓦、一つは古い煉瓦、です。そしてそれぞれに作られた年代が彫り込まれています。
左図No9[2nd MOIWA]藻岩山はもともとは「藻岩山」という名前ではなく「インカルシペ」(いつも上がって見張りをするところ)と呼ばれていました。そして、お隣の円山が「モイワ」(小さな岩山)と呼ばれていましたが、明治時代に名前を取り違え、その後はそのまま定着してしまいました。この二つの山は、各の山の方向を示しています。
右図No10[SAPPORO SUNDIAL] これは、札幌の時間を知るための日時計です。
左図No11[KAMOKAMO STEP]創成川の上流、中島公園を鴨々川という川が流れています。明治時代には、現在の南7条付近の川沿いに、リンゴやナシの果樹園があったそうです。これはちょうど鴨々川の方向を示していて、自然にふれあいながら、川の歴史にも触れるきっかけとなっています。
右図No12[SAPPORO SOUND SOFA]街には、様々な音があります。このベンチは、札幌のまちを音で感じるベンチです。座ったとき、ちょうど頭の所に、集音に適したパラボラアンテナと同じ角度のへこみがついています。このベンチは、時計台の方向を向いていて、よ~く耳を澄ますと、鐘の音が聞こえるかもしれません。
左図No13[Present from SAPPORO]一本のもみの木の足下には、リボンの彫刻が施された、大小様々な四角い煉瓦が数個設置され、小さな子どもから大人までが、自分のサイズで座れるベンチとなっています。
右図は、団塚栄喜さんの作品とは関係なく、[創成川詩碑]です。創成川公園の北1条橋遊歩道に建立され詩碑の詩文は詩人の原子修氏、書は書道家の中野北溟氏で、碑は縦1.2m、横1.8mの黒御影石で作られています。