[天神山緑地]のある平岸地区は、アイヌ語で[ピラ・ケシ・イ(崖の尻の処)]と云う意味だそうですが、明治4年岩手県人60戸が入植して麻を栽培した事から[麻畑村]と呼ばれていましたが明治8年に[平岸村]と改名しました。明治20年頃から林檎の栽培に変り一時は[平岸りんご]の名で全国に勇名を馳せた時代もありましたが、現在は殆ど果樹園もなくなり一大住宅地として発展を続けています。現在区内の天神山緑地が当時のりんご園として記念碑や歌碑などが建立されて当時の思い出を留めています。[天神山緑地]は標高85メートルの[天神山]にあり緑地面積が64178㎡あり、緑地内には、日本庭園、梅林、など自然に恵まれた景観を誇っています。この緑地は中の島通に面していますが、地下鉄南北線の[南平岸駅]と[澄川駅]の中間点に位置していますが市内路線バスも運行しています。
[天神山緑地]の来歴
[天神山緑地]と呼ばれる様になったのはかってこの山の所有者だった福岡県出身の南部源蔵さんが明治36年に九州の太宰府八幡宮から天神様の分霊を勧請してここに祠を建て祀った事によるものです。現在も緑地内の平岸天満宮に祀られています。
[天神山緑地
緑地の入り口は鬱蒼たる樹木に覆われ、緑地の姿を見ることが出来ませんが、この木立の下を進むとなめ
らかな坂を登り広々とした緑地が広がっています。
日本庭園
緑地内にある日本庭園です。典型的な日本庭園で、滝から流れ落ちる水しぶきが静かな庭園に木霊する様です。しっとりとした佇まいの中で滝の躍動感が庭園の持つ景観を生き生きとしている思いに駆られます。
日本庭園全体を覆う木々が色鮮やかなコントラストを描いています。四季折々にとりどりの色で彩られた美しい景観が楽しめます。
札幌市内を俯瞰(中央が手稲山)
緑地内の碑
[平岸開基120年記念碑][平岸リンゴ園跡碑]
平岸リンゴ園の跡地であったというパネルが立てられています(上図右)。ここには次の様に記されています。[平岸は明治の頃からリンゴの栽培 が始められ大正期から昭和20年代にかけて全盛を誇った。かってこの天神山のふもとを始め周辺一帯はリンゴ園が広がっていたが、その後の人口増加に伴い急速に宅地化姿を消した。[平岸リンゴ]に因み、環状線通りにはリンゴ並木が植えられ、毎年[リンゴまつり]が
行われている]。
[林檎園日記]
この碑には林檎園を経営する一家の作業の姿が描かれていますが、この戯曲の舞台となったのは[安部林檎園]という林檎園で3代にわたって続けられてきた林檎園の事が書かれています。1947年には東京芸術劇場の第二回公演として初演されています。上演に当たっては[この作品は久保栄の戦後第一作で、詩情にチェホフを想はせ主題に[桜の園]を一歩出んとする生活詩劇である]と評論されています。
[石川啄木句碑
句碑には[石狩の都の外の君が家林檎の花の散りてやあらむ]と刻まれています。
この句は啄木が函館代用教員時代に知り合った橘智恵子について詠んだものです。当時札幌郊外で果樹園を経営していた智恵子の実家(現東区)の風景が詠われたものだそうです。平岸の林檎園と啄木は直接関係はありませんが、かつてリンゴで有名であった平岸リンゴを記念してこの句碑が建立されたものです。
相馬神社
相馬神社の有る場所は[天神山緑地地帯]で、自然保護林として指定を受けている地帯です。平岸街道(かつての本願寺道路) から本殿まではかなり勾配のきつい坂道を登らなければなりません。
この神社は、明治35年1月に福島県相馬郡太田村にある相馬太田神社の御分霊を奉還し、当時の札幌郡豊平町5番地に仮神殿を設けたのが始まりです。その後明治42年に本殿が落成しましたが本殿は豊平町平岸村47番地でした。現在地に移転したのは大正5年8月1日です。この神社には、天之御中主大神が祀られています。この神様は、万物生命守護神として崇められている神です。
ご神木と[平岸開村五拾年紀念碑]
ご神木は樹齢300年を越すシバクリです。
[平岸開村五拾年紀念碑]は林檎栽培を中心として発展する村の50年を記念して大正9年(1920年)5月に地元民の有志によって建立したものです。平岸は1871年(明治4年)岩手県水沢から62戸200人余が入植したのが始まりです。