月寒公園 豊平区美園10-12条7-8丁目・月寒西2-4条4丁目

[月寒公園]はかっての大日本帝国陸軍第7師団歩兵第25連帯本部の小演習場で[干城台]と呼ばれていた場所に射撃用地を加え、戦後の1961年(昭和36年)公園として開園したものです。公園へのアクセスは地下鉄開通以前は路線バスのみでしたが地下鉄東豊線が開通して大変便利になりました。217ヘクタールの広さがあり園域も豊平区美園10-12条7-8丁目から月寒西2-4条4丁目までの広がりを見せています。



公園の案内図です。図の右手は野球場などが大きなウエイトを占めていますが、赤○で囲ったエリアには自然美溢れる池や歴史を記した記念碑や彫像などが点在しています。

ボート池




月寒の丘とロング滑り台



札幌市内で最長の滑り台と言われ人気を呼んでいます。

園内の碑と彫刻

公園は月寒神社と隣接しており、歴史の森には歴史の重みを感じさせる記念碑が建立されています。

月寒開基百年之碑
碑文下段のの石板には次の様に記されています。
[時は明治四年(1871年)えぞ地開拓のため開拓使の要請により旧盛岡県人四十四戸百八十五人が故郷の盛岡を出発したのは旧三月十日のことであった宮古港より小樽に渡航し銭凾を経て月寒に達し人跡未踏の山野にいどみ幾多のかん難を克服し開拓の鍬を奮って開こんに従事したこれが月寒の草分けである顧うに国土開発の至情に燃え敢然故国を離れ遠い未開の地に入りよく月寒発展の基を築かれた先人の労苦誠に察するに余りがある今や開基百年を迎え我等開拓者の遺業を偲びこれを顕彰するためここに碑を建立して永く後世に伝えようとするものである]昭和四十五年九月七日 月寒開基百年記念顕彰会」
   「吉田善太郎功労碑」 (左)                開町五十年記念碑(右)
 吉田善太郎さんは、明治4年に岩手県から入植しましたが、吉田さんは、厚別川から水を引くため私財を投じて用水路を開削しました。この用水路は[吉田用水]と呼ばれていました。このお陰で農地の開拓もすすみ月寒の農業の発展に大きな功績を遺されました。この碑も大正2年に建てられたものです。開町五十年記念碑は豊平町開町50年にあたる大正9年に、当時の有志によって建てられました。



写真左は竹中敏洋さん制作の[永遠の像]で、月寒神社裏の小池に浮かぶ様に建立されています。写真右は木内禮智さん制作の[壺をもつ女]で公園の池の中央に建立されています。


月寒神社とアンパン道路

阿部与之助功労碑
公園に隣接する月寒神社とアンパン道路です。月寒はアイヌ語で。[月寒]は、アイヌ語で[チ・キサ・ブ又はチ・ケシ・サブ]で[丘のはずれの下り坂]の意味だそうです。この神社は明治17年に広島県からの移住者が厳島神社の御分霊と稲荷神の2柱を現在の福住に祀つたのが始まりです。その後明治33年には[西山神社]と命名されましたが、明治36年に現在の[月寒神社]に改称されました。現在の社殿等は昭和46年に竣工したものです。この神社の境内に建立されているのが阿部与之助功労碑です。明治3年北海道に移住した阿部さんは、入植後故郷から人々を呼び寄せ、この地帯の農地の開拓、山林の育成に大きな功績を遺されました。この功績を称えて大正9年にこの碑が建てられました。碑文は、薄くなり殆ど判読出来る状態ではありません。



アンパン道路
公園のすぐ傍を走行しているのが通称[アンパン道路]です。案内板には次のように書かれています[明治43年(1910年)旧豊平役場が豊平から月寒に移転したため、平岸の人々は役場の連絡道となる新道の開設を要望した。町は歩兵第25連隊に協力を要請し、翌年地元民も参加して工事が行われ全長2.6キロの道路が僅か4ヶ月で完成した。町は工事中兵士達に間食としてアンパンを提供した。これが今日の名物[月寒アンパン]である。以来この道はアンパン道路と呼ばれ地元民に親しまれている]。尚、2010年に平岸側にも記念板が設置されました。
写真右は[アンパン道路]沿いに建立されている[アンパン道路碑]です。