放送の草分け[NHK札幌放送局]と、初の民放[HBC北海道放送]

NHK札幌放送局

北海道における放送の歴史は、1928年札幌中央放送局の電波発射に始まりました。
1925年東京、大阪、名古屋の三放送局が合同して社団法人[日本放送局]が設立されると同時に5ケ年計画で札幌、仙台、広島、熊本に放送局を置くこととなりました。
1927年6月20日札幌に日本放送協会北海道支部が設立されましたが、この世話役として札幌商工会議所が大きな力を尽くました。一口弐 百円の出資金で638人、717口の出資を得て北海道支部が設立されたのです。
1928年6月5日AM11時[JOIKこちらは札幌放送局であります]のコメントが発せられ、本道での初めての放送がスタートしました。[NHK札幌放送局の歩み]によれば当日の聴取契約数は2.851件でしたが、当時の聴取料は月額1円、聴取許可料(契約金)も1円と言う記録が残されています。1952年HBCラジオ開局時の全道受信契約数は 50万を突破しています。NHK札幌放送局も開局当初は演奏所は中島公園に、送信所は月寒にありましたが、1934年5月、日本放送協会の附則により札幌放送局は[札幌中央放送局]と改称されました。
1959年9月18日大通りの現在地にNHK札幌放送会館が竣工し、中島の演奏所は新会館に移転しました。
尚、テレビ放送は1956年12月22日大通テレビ塔から開始されましたが、1962年5月27日以降手稲山からのアンテナに切り替えています。
演奏所があった中島公園には現在放送記念碑が建立され在りし日を偲ぶ縁となっています。写真は、左から[開局当時のNHK札幌放送局(所蔵札幌市公文書館[新しい札幌]より転載)][放送記念碑][建設当初の大通テレビ塔(所蔵(株)さっぽろテレビ塔]です。


HBC(北海道放送)

北海道で最初の民間放送は1951年11月30日創立された北海道放送株式会社ですが、北海道放送設立の母胎となったのは北海道新聞社でした。当時民放の採算性が議論の焦点となり、北海道における民放の採算性に関しては否定的な意見が主流でした。しかしあらゆる困難を乗り越えて民放を設立するとの決意が日に日に高まりゆく中、電波三法が成立し、1950年10月には[放送局開設の根本的基準]により、一地域一局、他地域に跨るネットワークはこれを認めない、と言う方針が決定しこの段階では北海道での民放出願社は北海道放送1社となり、開設の根本基準となった免許方針は北海道地区での北海道放送の開設をほぼ決定的なものとしました。
しかしその後資 金計画の面でのチェツクにより免許審査は予断を許さない厳しい状況となりましたが、資金計画と出資についての涙ぐましい展開が当時の道新関係者により続けられた結果、時間切れぎりぎりで第一次予備免許獲得の条件を完備することが出来ました。
1952年3月10日にはHBCラジオ局が開局しますが、試験放送は此に先立つ1月19日、札幌村の送信所から[JOHR。JOHR。こちらは北海道放送でございます]と、道内民放の第一声となる試験電波が発射されたのです。手稲山送信所北大寮歌[都ぞ弥生]で知られた手稲山は、標高1023メートルの山です。北海道でのテレビ開局に当たり送信所の設置を巡って縷々論議が繰り広げられました。先発のNHKは大通に建設のテレビ塔の利用を決めましたが、民放である北海道放送は、北海道という広域圏でのサービスエリアの観点から[マウンテントップ方式]を採用し、手稲山に送信所を建設しました。この送信所建設には想像を絶する困難が伴いましたが、約1年間の難工事を終え無事送信所が完成し、予定通りテレビ電波を発射することが出来ました。その後NHKをはじめ後発の民放各社も手稲山からの電波発射を行うこととなり現在に至っています。 写真は、左から[創立当初のHBC本社屋][元村送信所跡地の記念碑][開局当時の手稲山送信所]です。