戦後間もない北海道のこの当時の人口は、439万4千人と未だ500万には達していませんでした。ようやく北海道開発の機運が高まり、1950年に成立した[北海道開発法]に基づきこの年には[北海道開発局]が設けられました。又、9月25日には、民間航空の国内線が再開され、10月26日には、東京・千歳間の民間航空も再開されましたが、当初のターミナルは、千歳のアメリカキャンプの中にあり、ターミナルに行くには正門で許可を得る必要がありました。この当時の[乗客名簿]は、新聞にも掲載されるなど、今日とは今昔の感があります。 |
1952年(昭和27年)
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1953年(昭和28年)我が国で民放初のテレビ放送開始
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1954年(昭和29年)洞爺丸遭難事故
この年も色々と痛ましい事故が発生しましたが、その中でも我々にとって忘れることの出来ないのは、9月26日北海道を襲った台風15号により、青函連絡船[洞爺丸]が函館七重浜沖で沈没し、死者行方不明者実に1175人を出した大惨事です。未だテレビがない時代でしたが、ラジオの機能をフルに活かした報道活動が繰り広げられました。 又、本道に関連した事故としては、8月30日、釧路太平洋炭坑でガス爆発が発生し死者39人をだしています。 本道初のテレビ実験放送 1952年北海道で初のラジオ局を開局した北海道放送は、ラジオ局開局後テレビ放送にも意欲的に取り組み、その前哨戦としてこの年函館で開催された[北洋博]で実験放送を開始しました。この実験放送は53日間にも及び、天皇・皇后両陛下の函館港上陸の生中継など、制作技術を含めた多角的な実験を行い、このことが北海道初の民放テレビ局の開局に繋がっています。 時代の花形[街頭テレビ] 前年我が国で最初の民放テレビ局としてスターとした[日本テレビ]の営業戦略として取り上げられたのが[街頭テレビ]でした。この当時受像器が高価なため家庭での普及が進まず、東京の都心では人々は街角に設置された街頭テレビからのテレビ映像に歓喜の声をあげて凝視していたものです。この街頭テレビに拍車をかけたのが、テレビのスポーツ中継でした。今でも語りぐさになっているのはプロレス中継でした。あの当時の力道山の勇姿が脳裏にしっかりと刻み込まれています。 プロレスが興業として初めてお目見えしたのが、2月19日のシャープ兄弟対力道山・木村組の試合でした。国内を沸かせたプロレスは急速に高い人気を博する様になりましたが、この原動力となったのはテレビの功績でした。 ラジオ局の開局状況 1月 1日 九州朝日放送 3月 1日 ラジオ山陰(現山陰放送) 7月 1日 ラジオ山梨(現山梨放送)、ラジオ宮崎(現宮崎放送) 7月15日 ニツポン放送 8月27日 日本短波放送 10月1日 琉球放送 全国各地に続々とラジオ局が開局しました。 |
1955年(昭和30年)55年体制の確立この年、11月15日には自由党と日本民主党が保守合同を果たし、一方、社会党も右派と左派が合併して、所謂[55年体制]が確立し、永年我が国の政治はこの55年体制の下での攻防が繰り広げられてきました。 この年8月24日には、消費者を震撼させた[森永乳業ヒ素入り粉ミルク事件]が起こり、全国各地で乳幼児が死去するという痛ましい事件がありました。又、4月6日には[帝銀事件]の平沢貞道被告の死刑が最高裁で宣告され、長い間の裁判が結審しています。 北海道では、この年も炭坑爆発事故が発生し11月1日には赤平雄別炭坑では死者60名を数えました。7月5日には戦後最大の豪雨が道央を襲い、死者14名行方不明者29人という自然災害にも見舞われています。 テレビ実験局開局 北海道放送のテレビ放送の実験も、北洋博に続いて本社所在地である札幌でも行われる事となり、7月1日には第2次テレビ実験局、続いて12月28日には第3次テレビ実験局が開局され、本放送に向けての試走はいよいよ本格化してきました。この実験は翌年の4月まで続けられました。 北海道放送のエリア拡大路線はこの年も続き8月1日には道東の帯広に帯広放送局を開局しました。又、商都として発展を続ける小樽地区では、6月6日小樽支社を小樽放送局に格上げして放送体制の充実を図っています。 2番目の民放テレビ局開局 日本テレビに次いで我が国民放2番目のテレビ局として4月1日ラジオ東京(現東京放送9のテレビ局が開局しました。 ラジオ局開局状況 3月10日 岐阜放送(現東海ラジオ放送) この年には、東京通信工業(現ソニー)がトランジスターラジオを発売し、ラジオの聴取層の拡大に大きな役割を果たしています。 |
1956年(昭和31年)[もはや戦後ではない] |
1957年(昭和32年)北海道で初の民放テレビ局開局 |
1958年(昭和33年)[ミツチーブーム] |
1959年(昭和34年)皇太子ご成婚 |