1960年代の日本経済は景気の後退局面に入ったが、東京オリンピツク、日本万国博覧会、新幹線の開通などの影響で、一時期の不況期を脱して[いざなぎ景気]に繋がり高い生長率を保持する事が出来た。これと歩調を合わせて個人消費の生長率も総じて高い水準を維持する事が出来た。電波広告にとっては将に[成長期]と呼ぶに相応しい時代であった。
表11

1964年4月1日
IMF8条国に移行
1964年10月10日-24日
東京オリンピック開催
1964年10月1日
新幹線東京-新大阪開通
1970年3月14日-9月13日
日本万国博覧会(大坂万博)

この時代、総じて高い生長率を示したが、1965年、山陽特殊鋼の倒産、山一証券の緊急投資など日本経済は不況期を迎え生長率も5.7%と言う低成長率に留まった。

表12

1960年代の北海道経済は、所得面(道民所得)では全国水準に比較して概ね4%台を維持してきたが、所得水準は全国比80%に留まっている。
北海道の人口動態
1960年5.039.206人
1965年5.171.800人
1970年5.184.287人
この10年間の人口増は145.081人に留まる。

表13

北海道の総人口の伸び率は上記に記載した通りであるが、これに対して札幌市の人口は年々増大化の傾向を示し、1970年には100万人を突破して我が国で8番目の100万人都市の仲間入りを果たした。
北海道の総人口に対するシエアも年々拡大し、1970年には19.5%に達し、札幌への集中化は急速な高まりをみせた。

表14

道都札幌への集中度の高まりは北海道全域の人口動態にも大きな影響をもたらし、過疎・過密の二極現象が顕在化した。
グラフが示すように札幌と周辺都市の人口増加に対比して、炭鉱都市、郡部の人口減が顕著となった。これは相次ぐ炭坑の閉山、農村から都市への人口の移動なとが大きな要因であり、今後の北海道全域の均衡有る発展を図る上からも大きな課題となった。

表15

札幌市の人口の増大化は札幌市の産業構成にも大きな変化となって現れた。元々産業構成面では第一次産業に比して第三次産業が多かったものの、時代と共にサービス産業を中心とする第三次産業の増加が顕著となつた。
1968年の商業統計によれば('68.7.1現在)の札幌市の商店数は17.557でその内訳は、小売店数9.168で商店数の52%のシェアを占め、次いで飲食店30%、卸売り業18%となっている。飲食店のシェアが高いことも当時の札幌経済を表徴する一つの姿かも知れない。

表16

かっては北海道の商都として経済の中心的な役割を果たしてきた小樽も'60年代後半から販売の拠点が札幌へと移動する傾向が増え始め'70年にはこれまでの二桁のシェアが急減しこの傾向はこの後更に拡大化する事となる。小樽は商都としての顔から観光都市へと大きな転換が図られる事となつた。