第一章 北海道初の民放誕生目次
Ⅰ 民放創設時の経済環境北海道の経済環境は戦後我が国に残された資源の宝庫と謳われ戦後いち早くその開発 の必要性が叫ばれ1950年には北海道開発法が成立して、その実施官庁として北海道
開発庁が発足し開発計画が具体的に推し進められる等、北海道の経済再生と活性化に向 けて北海道の未来に明るい兆しが灯される時代でもありました。1952年は北海道総
合開発第一期10年計画がスタートした年です。全国土の 22.1%を占める北海道は敗 戦後のわが国に残された資源の宝庫として全国的に注目され、戦後いち早くその開発の
必要性が叫ばれる中、前述のように北海道開発法が成立し、北海道開発庁の発足によっ て開発計画が具体的に押し進められる事となりました。そして1952年4月1日の第
一次10年計画スタートと機を同じくして新しい放送メディアとしての民放ラジオ放 送がスタートしました。 まさしく北海道放送は北海道開発の一翼を担っての輝かしい船出となったのです。新し
くスタートした第一期開発計画の具体的テーマーは① 開発の原動力となる電源開発 ② 道路・港湾等のインフラ整備 ③ 食糧基地の開発等であり、具体的には
16.300 ㌶ に及ぶ江別・当別・月形・新篠津地域の造田開発、根釧原野パイロットフアーム開発、水力 発電所の建設が推進されたものの当初計画した通りの実績があがらず、1958年4月
1日からスタートした第二期計画は第一期計画の反省の上に立って第一次産業よりは 第二次産業にウエイトを置いた基盤整備に力が注がれました。第二期計画に投入された
国費は1933億円と言われて云われていますが、これらの計画の中には札幌オリンピ ックのメイン会場であり、亦札幌の一大ベットタウンとして有名となった真駒内道営団
地の造成も含まれていました。このような北海道に対する開発計画、石炭産業に対する 傾斜生産方式などに加え、北海道においても朝鮮動乱後の特需ブームの影響などにより
人口の増加率も高く1947年に実施された戦後初めての国勢調査による北海道の人 口は 385 万 3 千人(全国シエア 4.9%)でしたが、1955年には
477 万 3 千人と増加 し全国シエアも 5.3%に上昇しました。この間1951年10月25日には東京・千歳 間の民間航空が再開、叉、1952年5月には北洋漁業が再開するなど経済環境を引き
上げる上でも大きな影響をもたらしました。この年11月には全国的にも有名となった 「弾丸道路(札幌ー千歳間)」も開通し話題を呼んだものです。 Ⅱ 北海道放送創設の経緯1951年4月2日電波管理委員会は北海道放送を含む全国16社に対し第一次予備免許を交付しました。わが国のラジオ放送は1951年9月1日大阪地区での新日本放送NJB(現毎日放送)と、名古屋地区での中部日本放送CBCが
最初の電波を発射し、この後のラジオの開局状況は1951年11月11日朝日放送(大阪)、12月1日ラジオ九州(現RKB毎日放送)、12月14日京都放送、12月25日ラジオ東京(現東京放送)等、1951年末にはラジオ局6社を数えました。
翌1952年には北海道放送以下12局が開局し其の数も先発局を含めて18局に達しました。北海道放送設立の母胎となったのは北海道新聞社で、開設免許作業から実際の免許交付に至る迄の想像を絶する至難な道程は北海道放送10年史に克明に
記録されていますが、当時民放の開設を巡る国会議論の中でも民放の採算性が議論の焦点となり、大都市の民放設立計画に対しても[日本の産業界の現状を見れば、広告放送だけで放送事業を維持する収入を得ることは不可能であろう]と言う見方
が多く特に北海道における民放の採算性に関しては否定的な意見が主流でありました。これに対し当時の北海道新聞は次のように道民に訴えています。[民間人の資本で民間人が経営し、民間人がプログラムを組む北海道放送会社設立については、
色々と困難な条件があり、この点から、時期尚早の声がないでもないが、北海道が本州から取り残され、ひとり、この全国的な民間放送開始の波に遅れることは、北海道文化のためにも、その自負心と良心とにおいて、断じて許されぬ事だ]。
この主張は丁度電波三法が成立した1950年北海道開発法が成立し、これに基づき北海道総合開発第一次五ケ年計画が実施される事となりましたが、北海道は地場資本の蓄積は全く弱体であり、自立的経済活動が見られずこのまま推移すれば
民放開局も中央局の中継局設置地域として着目されその勢力圏に納めようとする動きに対し、危機感を持って北海道の自立を道民に訴えたものでした。このような経済的にも弱い北海道では独自の民放設立計画は無理であろうと見ていた中央の関係者も
多かったのも事実です。しかしあらゆる困難を乗り越えて民放を設立するとの決意が日に日に高まりゆく中、電波三法が成立し、同年10月には[放送局開設の根本的基準]により、一地域一局、他地域に跨るネットワークはこれを認めない、と言う方針
が決定しました。この段階では北海道での民放出願社は北海道放送1社でしたが、行政当局が北海道に民放1社が成り立つと判断するかどうか、懸念する理由は十分にありました。その理由は政府の北海道民放設立についての反応が鈍く、視察に訪れる
国会関係者や、電波監理委員からも明確な方針が提示されなかったからです。しかし開設の根本基準となった免許方針は北海道地区での北海道放送の開設をほぼ決定的なものとしましたが、その後資金計画の面でのチェツクにより免許審査は予断を許さない
厳しい状況となりました。資金計画と出資についての涙ぐましい展開が当時の阿部道新社長以下幹部により続けられた結果、時間切れぎりぎりで第一次予備免許獲得の条件を完備することが出来たのです。設立当初の北海道放送は、現在の南1条西3丁目の
ビルにスタジオなどを設け活動を開始しました。 Ⅲ HBCラジオ局の開局と草創期のメデイア活動北海道放送は、昭和27年3月10日にラジオ放送を開始しました。此の後、昭和37年12月に道内2番目のラジオ局であるSTVラジオが開局するまでは、民放ラジオとしてはHBCラジオ一局時代が続きました。 創立時は本社は南1条西3丁目の藤井ビルに、送信所は元村(現札幌市東区)にありました。 ★ 民放ラジオとコマーシャル 北海道初のラジオ放送がスタートするまでNHKラジオ放送に永く親しんできた道民は、民放のスタートで初めて[ラジオコマーシャル]を耳にしました。民間放送は、NHKとは違って、放送に係る殆どの費用は 広告主から頂く広告料によって賄われていますが、このことは未だ一般の聴取者には良く理解されていない時代でした。一方、広告主も初めてお目見えしたラジオコマーシャルに対する理解も低く、草創期の放送局の 営業活動は、いかにして番組を提供してくれる広告主、又、ラジオコマーシャル(スポット放送)の広告主を開拓するかに大変な努力が払われました。HBCラジオの草創期は、地元スポンサーよりも既に開局中のラジオ局 で番組提供している中央スポンサーの比率が高く開局時(昭和27年)のラジオスポンサーの上位10社は、花王石けん、武田薬品、中山太陽堂、森永製菓、保全経済会、日本油脂、丸見屋、塩野義製薬、藤沢薬品、池田製菓で 、この他のスポンサーとしては、大正製薬、アジア製薬、田辺製薬、ピアス化粧品、黒龍堂、サロンパス、牛乳石鹸、ライオン歯磨、資生堂、小野薬品、ロート製薬、エーザイ等、薬品・化粧品関連スポンサーの利用度が高いのが特徴でした。 当時札幌では電柱に取り付けたスピーカーからコマーシャルを流す[街頭放声広告]が全盛時代で、[ラジオ放送]と[街頭放声]を又、[放送]が[包装]と混同されるなど、放送局の営業マンにとつては笑うに笑えない様な苦労の連続でした。 このような草創期における民放も、聴取者の高い支持を受け年と共に認知度も高まりを見せこのことによって広告主のラジオコマーシャルの利用も増え、予想を遙かに超える収入を確保することが出来る様になりました。 これには、昭和25年に勃発した[朝鮮動乱]の特需ブームも大変大きな要因となりました。 ラジオコマーシャルは、ラジオの聴取者にとっては勿論初めてですが、これを提供する広告主、広告の制作会社、ラジオ局にとっても初めての経験であり、このためよりよい[CM]を放送することが喫緊の課題でもありました。 まだまだ関心の低い地元広告主を対象に、よりよいCM作りの契機を作ろうと昭和31年から[CMコンテスト]が実施されました。これは、参加スポンサーのセーリングポイントを生かしたCMを一般聴取者から募集する企画でした。 この企画は昭和37年まで続けられましたが、ラジオコマーシャルが生活と密接したものと受け止められ、ラジオコマーシャルのその後の発展に大きく貢献しました。ラジオ草創期のCMは、簡単なストレート形式の物が主流でしたが、 年々制作手法が向上し、昭和32年のテレビがスタートした後はテレビと競り合う形でCMのスタイルが変化しています。これらの変化は特に東京、大阪市場では顕著で、中でも[シンキングコマーシャル]の全盛時代を迎え、我々にも懐かしい コマーシャルがラジオ・テレビを賑わせました。ラジオコマーシャルも、スタイルの変化と共に、2秒、10秒スポットなどと多様化し民放開局数年でコマーシャル(CM)はリスナーにもすんなりと受け入れられる様な状況になりました。 民放ラジオは、このような形で船出しましたが、聴取者からは[身近な放送][親近感溢れた放送]と大変な支持を受けましたが、広告主サイドも、民放ラジオコマーシャルは、[繰り返しの効果を徹底的に活用できる割安なメディアである]という 理解が深まり、このことが地元広告主ばかりでなく、これから北海道のマーケットを開拓しようとする中央広告主のラジオ利用を促進する原動力となりました。このためにはどうしてもより多くの道民が聴く事が出来るような放送地域(放送エリア) の拡大が必要となって来ました。 ★ 道内放送エリアの拡大 北海道放送ラジオは、出力3KWで札樽を中心とする道央圏の約24万3千世帯を対象として1952年3月10日放送を開始しましたが、同社が放送を開始した時点では既に前年の1951年、東京地区(ラジオ東京)、大阪地区(新日本放送)、 名古屋地区(中部日本放送)での放送も軌道に乗りつつあり、必然的にHBCラジオ開局時の営業環境は東・阪・名のスポンサー依存度が高い状況にありました。草創期の同社ラジオにとって永続的な経営の安定と収入の拡大を図るためには聴取率 の向上と放送エリアの拡大が喫緊の課題でした。聴取率については、北海道に初めて誕生した民間放送という事も幸いして聴取者の期待も予想以上に高く、開局1年半でNHKを抜いて優位に立つことが出来ました。伝統的なこれまでのNHKに 対する聴取慣習に対抗するためには、聴取者に主眼をおいた2ウエイコミュニケーションを取り入れた番組編成が必須との観点から、聴取者参加番組、リクエスト番組の編成に主力をおいた成果でもありました。 又、今ひとつの課題である放送エリアの拡大についても道内各エリアへの置局計画が開局早々から進められ、放送開始後の翌1953年9月には本社札幌局の出力が3KWから10KWに増力され、一方道内主要都市に対する拠点づくりにもいち早く 乗り出しラジオ放送開始の1952年10月1日には当時札幌と並んで北海道の商都と言われた小樽に放送局を開局、次いで翌1953年7月13日に函館放送局、同年11月28日旭川放送局を開局しました。叉、1955年 8月1日には帯広放送局、 1956年10月10日釧路放送局、同年10月23日室蘭放送局、同10月30日網走放送局、31日北見放送局を開局するなど放送開始数年にして北海道を縦断する放送ネットワークを完成させました。 1952年ラジオ放送開始当時には、全国的にも民間放送が経営的にも成立するか危惧される中で北海道放送もスタートしましたが、民間放送の番組がこれまでのNHKの放送とは一味違った新鮮さが聴取者に受け入れられると同時に、北海道が生んだ 自分たちのメディアと言う意識が予想以上の反響を呼びこのことが広告出稿面にも大きな波及効果を及ぼしました。この様に北海道初の民放発足以来5年間は北海道放送ラジオが道内電波広告市場を独占していましたが、この様な収入を確保出来たのは、 前述の様な道内市場に対する地域密着の営業路線強化による営収拡大と、併せて中央広告主の地方に対する販売拡大戦略が広域商圏としての北海道を重点エリアとして注目し、新しいラジオ広告がネット番組の提供などを通じて積極的な動きとなって現れて いたことによるものです。このように1950年代前半のラジオ広告費に占める道外投下広告費の比率が極めて高い事も 一つの特徴として挙げる事が出来ます。 ★草創期のラジオ番組 札幌地区で本格的な[聴取率調査]が始まったのが昭和28年12月です。この時の[高聴取率ベストテン番組]を見ると、その殆どがNHKの番組で占められ、民放番組は僅か1-2程度がランクされている状態でした。NHKでは我々にも馴染みの深い[三つの歌] [放送演芸会][のど自慢素人演芸会][今週の明星]等です。民放の番組では[平凡アワー][銭形平次捕物控]等がランクされています。処が昭和30年以降の調査では、ベストテンの殆どが民放番組で、NHKは、[三つの歌]のみがランクされている状態でした。 このような傾向は、発足後日浅い民放ラジオが、送り手と受け手の双方向性の番組作りに努力した結果、リスナーの関心が民放にシフトされつつある証左でHBCラジオも、聴取者参加番組に力をいれてきましたが、いつでも誰でも気軽に番組に参加できる 民放の気楽さがリスナーの評価に繋がった結果だと思います。昭和30年前半の民放ラジオ番組の中では[歌番組]が主流を占めていました。[私と貴方の三つの歌][のど自慢二つの歌][平凡アワー][素人ジャズのど自慢][キングアワー][スーパー十人抜きのど自慢] [歌謡学校]等々、歌謡番組のオンパレードでした。異色の番組は、HBCラジオ開局以来続けられた[アンコールアワー]で簡単にリクエストできる番組として高い評価を得ていました。これなどは、[パーソナルラジオ]の持つ特性が活かされた実例だと思います。 歌謡番組と並んで[クイズ番組]も、この時代大流行した番組です。各地域での公開放送によって地域との結びつきを強めようと始められた最初の番組が[この声百万ドル]です。昭和32年にスタートしましたが、NHKののど自慢に対抗した番組として、 全道各地からの開催希望が相次ぎました。初年度には、遠く利尻・礼文を始め道内44ヶ所で公開放送を開催しました。この公開放送は、スポンサーの地域販売促進活動にも大きな力を発揮して営業面でも大きな役割を果たしました。この事例が引き金となり、 此の後[都市対抗歌合戦]の実施に繋がるなど、新しいラジオリスナーの開拓と提供スポンサーのレギュラー化に一役買う処となりました。草創期のラジオ番組には中央から流される歌謡番組が多くありましたが、これらの番組の地方での公開録音も数多く実施 され民放ラジオの存在を高めた役割は大きいものがありました。これら公開録音所謂(公録)の中でも記憶に残るのは[ライオンジャブジャブショウ]です。この公録は、昭和32年から37年まで実施されましたが、会場となった中島スポーツセンターや旭川公会堂は、 入場整理券を持った会場内外の観衆の整理に担当する事業スタッフは勿論営業スタッフも死にもの狂いで当ったものです。最初の公演(昭和32年)は、花菱アチャコ・川口浩・小畑実・林伊佐緒・神楽坂浮子・音羽信子そして司会セシ凡太と云う豪華メンバーでした。 Ⅳ HBCテレビ局開局とマウンテントップ方式昭和32年4月1日、北海道で最初の民放テレビ放送(HBCテレビ)がスタートしましたが、テレビ放送の開始は、ネットワーク営業を含めた民放営業のあり方を大きく変える出発点となりました。テレビ開局に際して後述する[マウンテントップ方式]を始め数々の技術面での努力と研究の成果は今日の放送革新時代の基盤であった事を北海道民放半世紀の一ページとして記録に遺しておかなければならないと思っています。
さて、放送開始時HBCテレビは、第一チャンネルで1日7時間の放送を札幌のはずれにある[手稲山]のアンテナから放送する[マウンテントップ方式]に対し、一足早い昭和31年12月22日にテレビ放送を開始したNHKは大通公園に建立された[テレビ塔]からの放送でした。北海道放送は、ラジオに続いてテレビ放送の実施を目指し、昭和28年1月30日に申請書を提出しましたが北海道でのテレビ放送を実現するには、先ず東京-札幌のマイクロ回線を完成させることが必要条件でしたが昭和31年8月に電電公社によるマイクロ回線が完成して、テレビ放送実現に向けての第一歩が踏み出されています。既にラジオ放送を開始していた北海道放送は、テレビ放送実現に向けて早くから準備を進めてきましたが、テレビ放送実現の大きな原動力となつたのは、昭和29年函館で開催された[北洋博]での実験局であったと言われています。この実験放送は53日間にも及びましたが、期間中には、北洋博ご視察に来道された天皇・皇后両陛下の函館での上陸第一歩を実況放送を行っています。その後数々の実験を経て昭和31年にはいよいよ本放送に向けての離陸体制に入りこの年の2月には郵政省の基本方針で札幌地区2局(NHK・HBC)の免許交付が確実視され、このためHBCテレビは送信所を手稲に建設することを決定して建設作業に着手しました。11月9日には、HBCテレビには第一チャンネルが割り当てられ、いよいよ放送開始が具体化されアンテナ建設の問題と合わせて、営業収入の基盤となる[放送ネットワーク]も極めて重要な問題となってきました。 ★マウンテントップ方式と手稲山 |