札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)
恵迪寮歌[都ぞ弥生]
北大と言えば[都ぞ弥生]の寮歌は大変有名です。写真は、[都ぞ弥生]の歌碑です。この歌碑が北大構内の北のはずれに建立されています。この碑は昭和32年9月24日に建立されましたが、永い歴史の中で風雪に晒されたため、2007年に現在の新しい碑に取り換えられています。
この碑は、札幌市北区の[北区 歴史と文化の八十八選]選定されています。
碑に刻まれている歌詞です。
この寮歌が作られた経緯については、2012年5月20日ー6月20日まで北大総合博物館3階企画展示室で開催の[都ぞ弥生百年記念展]のパネルの中で紹介されています。下記にその内容を引用して記載していますのでこちらをお読み下さい。
作詞者の横山芳介は、1891年(明治24年)5月東京神田駿河台で貴族院書記官を務められていた横山光二さんの長男として出生しました。東京女子高等師範学校付属小・中学校に進み、友達から文武会編[札幌農学校]を借りて読み北海道への憧れを抱く。明治43年(1910年)9月農科大学予科に入学し恵迪寮に入寮、入寮2年目に同好者と[凍影社]を組織して機関誌[辛夷]の刊行に関わり、その文才が認められて明治44年に寮歌の選定委員にとなり[藻岩の緑]の歌詞に手を加える。明治45年3月26日学生ノートに[都ぞ弥生]の歌詞を清書し[人の批判がどうでも、自分はかなり努力をもって此の歌を作ったものである事を慰めとする]と記した。4月18日の恵迪寮記念祭で明治45年寮歌に制定された。このノートは、[都ぞ弥生]の歌碑に彫りこまれている。彼は1938年(昭和13年)1月48歳で病没。
(註)このコメントは2012年開催の[都ぞ弥生百年記念展]のパネルから抜粋して引用しました。 |
作曲者の赤木顕次は、1889年(明治22年)小樽市で赤木病院の長男として出生しました。小樽小学校から東京の京北中学校に進学し難聴ながらハーモニカ全国大会出場と云う特異な才能を持っていました。明治41年(1908年)農科大学予科に入学し恵迪寮に入寮したが、寮の委員長日誌に[自宅への頻繁外泊・長期外泊等が寮生としての資質に欠けるから、退寮処分にすべきだ]等の記録があり、当初は学校に馴染めなかったようである。明治44年には寮歌の選定委員になり[藻岩の緑]の譜を大幅に修正して批判を受けた。明治45年4月18日作曲した[都ぞ弥生]が恵迪寮の記念祭で明治45年寮歌に制定された。[藻岩の緑]の修正を批判された事を契機に横山と同室に住んで徹底的に意見交換して[都ぞ弥生]を完成させた。[余りにも作曲技法から外れているから専門家に見て貰うべきだ]という指摘に対しても[二人で全知全能をかけた曲だ、改定するなら辞退すると反論してそのまま発表した]と回顧談に書いています。
(註)このコメントは2012年開催の[都ぞ弥生百年記念展]のパネルから抜粋して引用しました。 |
2012年は[都ぞ弥生]制定百年にあたり数々の記念行事が行われましたが、北大総合博物館では記念展(2012.5.20日ー6.20日)が開催され、寮歌に纏わる多くの資料やパネル展示がありました。
寮歌の原点[恵迪寮]
[都ぞ弥生碑]からほど近くに[寄宿舎跡の碑]があります。ここはかっての[恵迪寮]のあった場所です。[恵迪寮]の語源は[書経]にある、[迪(みち)に恵(したがえ))ば吉(よし)=善道に従えば吉事があり、悪道に従えば凶事がある]という意味だそうです。[恵迪寮]の始まりは札幌農学校が現在の札幌時計台の場所にあった当時この近くに寄宿舎が作られましたが、明治38年に現在の大学構内(北11条西7丁目)に移り、明治40年に[恵迪寮]と命名されました。その後昭和6年(1931年)には第二農場西の森の中に移転し、昭和58年(1983年)老朽化の為解体されるまで約半世紀多くの学生の寄宿舎として勇名を馳せてきました。その一部は現在[開拓の村]に復元されています。
左図は、初代の[恵迪寮]です。
所蔵 北大付属図書館
碑は、日高産の石で出来ており、[寄宿舎跡の碑]という碑文には恵迪寮の由来が当時の有江学長によつて書かれています。
昭和58年-59年に復元され開拓の村に保存されている恵迪寮(玄関棟と二棟12室)
北海道博物館所有
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