札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)

本願寺街道

[本願寺街道]は、胆振国尾去別(現在の伊達市)から札幌市の平岸に至る二十六里十町(約103km余)の道路で現在の国道230号の基礎となっている道路です。[本願寺街道]は、尾去別を始点として有珠山、洞爺湖の東側を迂回して、壮瞥・定山渓・簾舞・そして平岸が終点となっています。[この難工事は明治3年(1870年)7月、尾去別より起工し翌明治4年(1871年)10月平岸の終点までを1年3ケ月という短期間で完成しました。総工費は18.057両(約2億円)、延人夫55.000を要した難工事でした。




[本願寺街道起点碑(伊達)]


[本願寺道路終点碑(平岸)]

最大の難関[中山峠]
中山峠の道路沿いの木立の中に建立されています。



台座には下記の様に書かれた銅板が組み込まれています。
頌徳文
現如大谷光瑩上人ハ東本願寺第21世厳如上人ノ法嗣、明治3年2月勅命を蒙ッテ京都ヲ出発、一百余名
ノ部下ヲ率イテ本道に渡リ、新道切開、教化普及、移民奨励ノ三大目的達成ニ粉骨砕身努メラレタ。今
四上人ノ北門開拓百年ホ迎ウルニ當リ、上人19才ノ英姿ヲ刻ミ、永ク遺徳ヲ顕彰景仰スルモノデアル。

昭和42年10月8日 現如上人銅像建設期成会



現如上人銅像の由来北海道においては道南の一部を除いては昔から道路というものは全くなかった。幕末になつて幕府は国防上の見地から漁業関係者に命じて海岸の難所にでけ道路を造らしめた。明治元年(1868年)新政府は、北海道を要求に開発すると云う基本方針を決定した。これは北方から外国が侵入する危険を憂慮した国民多数の世論を反映したものである。さて、北海道を開発するについては、道央のサッポロに中央官庁を設置すべきであるが内陸には道路が無い、そこでサッポロへの新道切り開きが北海道開発第一の急務となった。しかし新政府には収入が乏しくこれを実行するための財源が無い、新政府は東本願寺に
懇請してきた。宗祖親鸞聖人は[世の中安穏なれ、佛法ひろまれとおぼしめすべし]と申された。その精神を化粧する東本願寺は世界の平和と仏法弘通のため、新政府の懇請を承諾し[新道切開、野う民移植、教化普及]の三要素を柱として北海道開発事業に着手した。山岳重畳する内陸に新道を伐り開く事は難事であるが、晃司完成に要する膨大な資金を短期間に集める事は一層の難事である。東本願寺は、19歳の若い現如新門主を総責任者とし、明治3年2月京都本山出発より一行が通過する東海、北陸、奥羽の東本願寺門徒にきふを依頼した。そして京都より引率した僧俗百数十名の外、仙台支藩の武士や多数の人々の協力を得て、明治4年7月新道完成直ちに官庁が札幌に開設され、それを中心として北海道の開発は急速に進められた。新道は太平洋側の有珠から中山峠を経て札幌に至るもので、札幌と函館とを結ぶ最短距離である。のち地方費道に編入され更に国道に昇格、多額の国費をもつて大規模に改修され現在年間数百万人に利用されている。昭和44年(1969年)現如上人の渡道開教百年にあたり上人を始めこの工事にたずさわった多くの人達の郎邦感謝しし、その功績を顕彰せんが為に真宗大谷派北海道教区は僧俗の浄財をもつて因縁深き中山峠にこの銅像とレリーフとを建設した次第である。尚銅像建設工事並びに護持については地元喜茂別町の支援を蒙ること多大である。記して謝意を表する。



かつての[東本願寺街道]は、明治政府の許可のもと[東本願寺]が事業に着手する事となり、1870年(明治3年)現如上人に率いられた一行が7月に函館に上陸し、北海道で4本の道路の開削を行いました。その内の一つが、尾去別(現在の伊達市)から札幌市の平岸までに及ぶ[東本願寺街道]と呼ばれている道路です。当時東本願寺と徳川家の関係が深いことから朝廷派が東本願寺を排除しようと考え、本願寺は反意がないことを誓書として提出し、この代償として道路建設を出願し新政府が許可した]。と、記録に残されています。
東本願寺札幌別院は、札幌の中心街南7条西8丁目にあります。市電の[東本願寺]停留所の側で現在は広い敷地の中に本堂を始め書院・納骨堂・ホール・幼稚園の他に墓地もあります。写真左の山門は1914年9月(大正3年)落成したものです。この別院の歴史は、1870年(明治3年)当時19才の現如上人を責任者として随員百数十人と共に北海道の開拓、開教に着手したことに始まります。1870年7月、東本願寺管刹寺として設立されその後1976年(明治9年)札幌別院と改称されたものです。



簾舞中学校の通学路入り口に[札幌ふるさと文化百選・本願寺街道]の案内板が設置されています。
[簾舞二星岱南側および旧[山の上](現・簾舞団地)と称した処に札幌の黎明期僧侶たち行が困苦欠乏に窮しながらも敢然と未開の第原始林に挑んで、一条の道筋を開削した[本願寺道路]の跡がある。(中略)特に函館と札幌を結ぶ重要道路として、工事に最も力を入れたのは、尾去別(伊達市)から札幌平岸まで道幅約3m全長26里(約104kM)の事業で山間渓谷難所続きも1年3ケ月の突貫工事により4年10月に完成させた。それは、現在の国道230号線の原形となったもので当時の姿の一部を簾舞で偲ぶ事が出来る。この街道が後世、地域発展に大きく貢献した事は云うまでもない。往時を知る貴重な[史跡]である]。





写真前方に見えるのが[二星橋]で、左一面が[二星岱]です。上図の街道は大変判りづらく[石碑]を探しだすことが出来ませんでした。

札幌市南区のホームページからお許しを頂いて掲載しました。



左の写真は、現在の[簾舞]に保存されている[旧黒岩家住宅]で、旧簾舞通行屋として使用されていたものです。この建物は、1871年(明治4年)に札幌-有珠間に通ずる[本願寺道路]が開通された事に伴い、翌1872年に旅行者や開拓者の休憩、宿泊の為に設けられたもので、開拓使は、当時函館軍川(いくさかわ)の通行屋であった黒岩清五郎さんを簾舞通行屋に指名して移住させました。現在札幌市指定の有形文化財で資料館として一般に公開されています。