札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)

旧出納家
札幌方面から北広島市に向かって国道274号を進と、JR千歳線 上野幌駅から札幌寄りに 雪印種苗(株)の本社ビルと園芸センターがあります。この本社ビルの裏手に, 樹木に包まれるように 発祥の碑が建ち、周囲には「旧出納邸」[雪印バター誕生の記念館」[旧出納邸サイロ」などが建っていて, 牧歌的なゆつたりとした情景を醸し出しています。

この一帯はかつては出納陽一が経営する出納農場でしたが、宇都宮仙太郎が経営に参画し、[宇納農場]となつたものです。宇都宮仙太郎は、1902年(明治35年)豊平橋から東に1キロばかり離れた現在の豊平区菊水の原野に牧場を開きホルスタイン種20余頭を飼育していました。大正年代に入り、1915年(大正4年)仙太郎が会長となつて札幌酪農組合を結成しました。仙太郎は、上野幌の出納農場(現在の雪印種苗)を借りてバターの工場を造り製造を行っていました。
その後1925(大正14)年には『農民のための生産組織』として「北海道製酪販売組合」が設立されましたが この時に この農場を借りて 仮工場としてバター製造を開始しました。翌年には「北海道製酪販売組合連合会」に改組され、 新工場を苗穂地区に竣工しこれがかっての「雪印乳業」へと繋がっていきました。同社の前身である北海道酪農組合聯合会は戦中道内の森永乳業、明治乳業と統合して北海道興農公社として存在していましたが、戦後、公社の民主化が叫ばれ北海道興農公社を北海道酪農協同株式会社に変更することとなりました。1949年北酪社は分割指令に基づき北酪社は存続会社を[北海道バター株式会社]新会社を[雪印乳業株式会社]に分割され雪印乳業は1950年6月10日設立されました。つまり この地は「雪印乳業発祥の地」と言っても過言ではありません。

現在雪印種苗構内にある[雪印バター誕生の記念館]前には[酪聯発祥の地碑]が建立されています。1958年(昭和33年)建てられたもので碑文は宇都宮仙太郎の薫陶を受け長く北海道酪農界に尽くした黒沢酉蔵が書かれたものです。
[雪印バター誕生の記念館]です。この記念館は雪印乳業の前身である、北海道酪農販売組合)が1925年(大正14年)にここにあった宇納農場の製酪所を借り受けてバター製造を開始した事を記念して設けられました。建物が老朽化しているため内部には入れませんが、案内ボードによると、はじめてバターの製造を行ったのは大正14年7月25日で、1日の生産量は120ポンド(約54KG)から200ポンド(約91KG)でした。

宇都宮仙太郎は、大分県から北海道にわたり酪農の分野で努力を重ね、雪印乳業の基盤を築いた先人の一人として今日もその名を留めています。仙太郎は、大分県大幡村(現在の中津市)に1866年(慶応2年)4月14日生まれました。その後上京して当時高橋是清が校長を務める神田の共立学校に入学しました。彼が20才の時酪農に志を燃やし北海道に渡り真駒内牧場を訪れました。(この牧場はエドウィン・ダンが開いた牧場です)。ここで牧夫として採用されましたが、乳牛の勉強のためにはアメリカに行くことが必要と考え、1887年(明治20年)アメリカに渡りました。アメリカでの修行を終えて1890年(明治23年)帰国し、翌年には札幌で市乳の販売を開始しました。又、バターの製造にも着手しましたが、これは民間では最初で北海道酪農史の上でも記念すべき一ページとなりました。仙太郎は、1940年(昭和15年)3月1日、75才を一期に酪農に捧げた生涯に別れを告げたのです。

旧出納邸の前に案内ボードが設置されています。これによるとこの建物は大正14年(1925年)に建築されたものです。


この建物は、この地で牧場を経営していた出納陽一氏の邸宅として1925年(大正14年)に建てられたものです。彼がデンマークに留学中に目にした富豪の家をモデルにして設計されたと言われています。1・2階は出納家の家族用、屋根裏部屋の3階は全道から集まった実習生の寝室にあてられていました。