現在札幌の観光スポットの一つとして脚光を浴びている[サッポロファクトリー]は、ショツピング・アミューズメント・レストラン・ホテルなどを始め160余のショツプと施設が集大成された大型商業施設として平成5年にオープンしました。この場所は、明治9年現在のサッポロビールの前身である[開拓使麦酒醸造所]が創業した跡地です。

開拓使麦酒醸造所開業



1876年9月23日兵衛が中心となって建設された村橋久成・中川清兵衛が中心となって建設された開拓使麦酒醸造所は、明治9年開業することとなりました。翌年には開拓使のシンボルである北極星をマークとした冷製札幌ビールがはじめて世に送り出されました。開拓使麦酒醸造所は現在の札幌フアクトリーで、この麦酒が現在のサッポロビールの発祥となっています。





開業式の庭先に積まれたビール樽には麦とホッ開業式の庭先に積まれたビール樽には[麦とホップを製す連者ビイルとゆふ酒に奈る]と書かれています。(所蔵 北大付属図書館)

開拓使麦酒醸造所を語るとき忘れられないのは村橋久成と中川清兵衛の二人です。



村橋久成(1840年-1892年) 、薩摩藩 村橋久成(1840年-1892年)は、薩摩藩島津家一門の出で、ロンドン留学後 1871年(明治4年)薩摩藩出身の黒田清隆次官がつとめる開拓使に採用され、ビール醸造所建設の責任者になりました。札幌にビール工場建設の生みの親とも言われ、知事公館前庭に胸像も建立されています。



中川清兵衛(1848年-1916年)は、越後国中川清兵衛(1848年-1916年)は、越後国(現在の新潟県)に生まれ、ドイツに わたりベルリンビール醸造会社で2年間の修業後帰国、1875年(明治8年)開拓使麦酒醸造所の醸造人となり開拓使麦酒醸造所開業に大きな役割を果たしました。
開拓使によつて開業した[開拓使麦酒醸造所]の創業時の生産高は年産100石に過ぎませんでしたが、その後、明治13年には330石までになりその後も量産体制に努めてきました。その後明治19年北海道庁設置に伴い麦酒醸造場(その後明治19年北海道庁設置に伴い麦酒醸造場(これまでの醸造所が改称された)は、大倉喜八郎氏の大倉組に払い下げられましたが、翌明治20年12月渋沢栄一、浅野総一郎氏等が大倉喜八郎氏から麦酒醸造場を譲り受け札幌麦酒会社を設立した。一方東京では明治20年9月日本麦酒醸造会社が設立され明治23年2月には[恵比寿ビール]を発売しましたが、これがサツポロビールのもう一つの源流となっています。



1900年代初期にはそれ で全国に 多く存在 1900年代初期にはそれまで全国に数多く存在していたビール醸造所も淘汰され、札幌・日本・大阪(旭ビール)・麒麟麦酒の4大会社が激烈な競合状態にありました。このような状況下、日本麦酒の馬越恭平氏は明治36年、札幌、日本、大阪麦酒の三社を合併しシェア70%台の大日本麦酒株式会社を発足させました。その後戦後に至り昭和24年9月大日本麦酒株式会社は[過度経済力集中排除法]の指定を受け、日本麦酒と朝日麦酒の2社に分割され、日本麦酒は新発足後[ニッポンビール]の商標でスタートしましたが、愛飲家の要望に応えるかたちで商標を[サッポロビール]と改め、昭和39年1月社名もサッポロビール株式会社と改めました。





北海道新工場建設とサツ ポロフアクトリ の開業




同社はその後の増大する需要と新しい市場開発を目同社はその後の増大する需要と新しい市場開発を目指して平成元年6月恵庭市戸磯に年間生産能力は11万6千4百キロリツトルのサッポロビール北海道工場を新設しました。この工場の新設に伴い永い歴史を誇っていた第一製造所を廃止しその跡地を企業パビリオンとして、都市機能を整備して複合的な街づくりを行う為これを[生活工房サッポロフアクトリー]と名付け、敷地面積41,217uの中に多面的な施設が網羅されました。又、同社創業の地である札幌工場(明治36年に札幌精糖から買収し昭和41年にサッポロビール札幌第二工場として稼働、北海道工場の稼働を機に札幌工場と改称)は、平成15年3月末をもって閉鎖され、サッポロビール園、博物館などの施設として運営されています。

思い出を留める建造物







工場跡地に開業したサッポロフアクトリーは。札幌市の中心部北2条東4丁目の全域にまたがり、[フロンティア館][1号館][2号館][3号館][レンガ館][西館]からなるショツピング、グルメ、アミューズメント、スポーツ、ホテルなどの施設から成っています。

アトリューム

1号館と2号館の間の空間にある[アトリウム]です。

ホテル クラビー

レンガ館と道路を挟ん 西側にある[西館]には [ホテルクラビー]があります。