北海道テレビ放送(株) HTBは1968年11月3日開局しましたが其の経緯を同社社史「25年の歩み」を参照しながら記述します。同社設立の契機となった1967年はテレビ周波数割り当て基本方針と第一次・第二次チャンネルプランが修正され、「いざなぎ景気」を背景に開局申請が殺到し、同年10月末にはその数も全国で190件に達したと言われています。HTBは「道民放送」の名で初代社長に就任した岩澤靖氏(当時札幌トヨペツト社長)が札幌地区で最後の申請を行いましたが札幌地区では七社の競願となり最終的には政治的解決により一本化に成功し、1967年10月17日免許申請、同年11月1日予備免許が交付されまし。そして会社名を現在の北海道テレビ放送と定め1968年11月3日開局しました。 UHF局としてのHTBにとって開局当初の最大の課題はテレビ視聴のために必要なコンバーターの普及であり、その普及のためには社員は勿論のこと岩澤氏の系列会社も総力を挙げてこの販売に努力しました。そして既存のHBC・STVに対抗するためには当然視聴エリアの拡大も大きな課題の一つであった為開局後12月15日小樽放送局、同月24日には旭川局を開局し翌1969年11月26日網走局、27日帯広局、28日釧路局、12月1日室蘭局、2日函館局を相次いで開局し、1970年2月末には視聴世帯80万を突破し同年末には90万を突破しました。
2018年(平成30年)9月18日HTB本社は開局以来の豊平区南平岸から新たに開発された中央区北1条西1丁目(創成1.1.1区)の超高層ビル[創成スクエア地上28F地下5F)の1-7階に移転しました。上図上は創業時の本社屋、下が新社屋
Ⅳ 情報化が進む電波広告
北海道地区では1974年のオイルショックによる不況時にもメディア広告費は着実に伸びたがこの要因は1960年代の個人の消費支出が堅調に推移した事による処が大きい。1960年代の後半から1970年代にかけて[情報社会論]が展開され[情報]の果たす役割の重要性が急速な高まりを見せた。通産省の情報産業部会の答申[飛躍する情報化]では、1960年から70年代の[情報化]を中心とした変化を[第一次情報革命]と呼んでいるが、本道とりわけ札幌における商業の中心的な役割を果たしてきた百貨店がオリンピック開催を契機として、これまでの伝統的な新聞などの活字メディア中心の宣伝広告から時代の寵児と化す迄に成長し、市民生活にとって最大の情報源であるテレビメディアを活用した宣伝広告に軸足を移したことは電波広告史上特筆されるべき事象でした。
デパートの売り上げではと特にオリンピックの開催年である1972年は前年比124.8%、翌'73年は131.4%と言う高い伸びを示しました。これら札幌市内デパートの売り上げを伸ばした要因には当時の経済環境など様々な要因が考えられますが、売り上げに貢献した新しい事象の一つとしてテレビメディアを使った通販即ちテレビショツピングを挙げる事が出来ると思います。1960年代後半には道内テレビメディアも4局体制となり、本格的な視聴率戦争に向けて、各テレビ局も地域密着路線にあわせた情報番組の開発と、在宅主婦を主たるターゲットとした午後帯編成に力を注ぐ処となり、生活情報・娯楽・グルメなど幅広いジャンルから構成されたワイド番組編成が各局の編成方針の柱になりつつありました。
先鞭を付けたのはHBCテレビで、これまで午前枠で放送して一定の実績をあげてきた「奥様スタジオ」を全面的に衣替えして、当時メロドラマの放送帯として定着していた午後2時台に情報ワイド「パック2PM」を1972年5月29日よりスタートしました。この番組の1パートとして登場したのがテレビによる通信販売即ちテレビショツピング情報です。
現在では通販番組・通販CMは日常化しており、目新しい物ではありませんが、当時としてはその斬新さは視聴者に大きな衝撃さえ与え、これまで新聞広告重点型であった百貨店広告をテレビに向けさせ、デパート広告として新機軸を作り上げた功績は極めて大きいものがありました。
ワイド番組編成はHBCテレビに続きSTVテレビでも「2時のワイドショー」として編成され1973年1月8日より番組がスタートした。遅れてこの番組コーナーにもテレビショツピングが登場することとなります。
何故この時代このような新しい商品販売方式が生まれてきたのか、其の時代背景を考えて見たいとおもいます。1965年以降国内経済は堅調に拡大の路を歩み、個人消費も可処分所得の増加によって拡大の一途を辿る事となる。消費の拡大は消費者の価値観の多様化とそれに即応した新しい付加価値重視の商品開発と流通チャンネルの拡充によって購買意欲を更に高める様な時代背景でありました。
特に北海道と言う広域圏においては、テレビメディアが出現する以前は都市部の住民を除く多くの道民は多様な商品知識と購買チャンスに恵まれなかった為、テレビを通じて紹介される商品情報に対しては敏感に反応し始めました。このような状況下登場したのが、全道どの地域でも茶の間に居ながらにして手に入れる事の出来るテレビショツピング情報だったのです。商品提供者が在札有名デパート(当時参加していたデパートは、丸井今井、三越、五番館、東急、松坂屋の5店)で、そしてテレビ局推奨と言う、視聴者にとっては極めて信頼性の高い安心して購入できる通販であると理解され、毎々日各デパートが紹介する商品に興味と選択視を広げて行ったのです。それだけに送り手としてのテレビ局の責任も大きく、消費者保護の立場に立ってクレーム処理の迅速・的確なシステムの確立、適正料金の設定、魅力ある商品開発など各デパートとの協力関係の中での日々の努力が続けられ、その努力と実積がテレビショツピングを今日まで永続し、テレビの持つ生活情報としての機能が完全に市民権を獲得するに至ったのです。我が国での電波ショツピングは1971年のテレビ、1973年のラジオで、本道の電波ショツピングもこれと相前後してスタートしたことを考え合わせても、将にこの時代は電波広告が情報化へ転化する出発点ともなったのです。
Ⅴ 地域活性化の
メデイア活動
地域に密着した各種企画の展開 テレビ多局化を迎え、厳しい競合に打ち勝つためにはメディアのアイデンテーを高め併せてスポンサーの求める販売促進効果を高める番組・スポット企画の積極的な展開が必須の条件となりました。冬季オリンピック後の HBC テレピは様々な営業企画に取り組みましたが、これらの企画の計画・実施は、テレビ局の総力を挙げてあたり、あわせて 当時観光の推進に力を入れていた行政との強固な協力関係により、様々な課題を乗り越えて大きな成果を納める事が出来ました。数多い企画の中から代表的な事例について紹 介します。
[HBC 北海盆踊り] この企画が実施されたのは 1977 年(昭和 52 年)です。これまで大通公園で夏祭りの一 環として札幌市商店連合会が主催する[盆踊り大会]が開催されていましたが、いまいち盛り上がりに欠け、札幌市としても夏のイベントとして盛り上げるべく検討を始めた矢 先に、HBC テレビが全面的に協力すべく行政と実施に関しての協議を始めましたが、市当局はこれまでの慣習、公園使用上の規制から結論を得るまでには大変な苦労があり ました。しかし関係部局のトップの英断もあり、装いも新たに[HBC北海盆踊り]がス タートする事になりました。このイベントは営業的にはスポット企画としてセールスさ れましたが、ナショナル・地場スポンサーの協賛により営業的にも大きな成果を挙げる事が出来ました。 HBC 社報(昭和 52 年 9 月号)には、この年の参加者数は (7 日間)延べ 26 万人、配布した団扇 2 万本、手拭8 千、 櫓の製作費500万円と記述されており、特に最終日に 行われる仮装盆踊りは、札幌夏祭りのフイナレーを飾る イベントして観光イベントの目玉となっていました。
又、札幌の初夏を彩る[ライラックまつり]にも札幌市 と協力のもと昭和 54 年から[さっぽろ音楽祭]を大通 公園の特設ステージで開催し道内アマチュアバンドの
登竜門として多くの若者が参加し、これには資生堂の 全面的な協賛を戴き企業イメージの高揚に貢献したイ ベントとして注目を浴びました。 これらは札幌市の観光振興の一環として開催されたイ
ベントですが、この時期札幌商工会議所が都市おこしの イベントとして主管した[さっぽろカーニバル]も営業 部門が中心となって実施したイベントの一つでした。
こ のイベントは、昭和 59 年(1984 年)から昭和 61 年 (1986 年)の 3 年開催されました。5000 人の出演者が 交通規制のもと札幌駅前通をパレード、沿道は満余の観衆で埋め尽くされ盛況裡に初期の目的を達して終了しました。記録によると 3 年契約で実施したカーニバルは毎回 10 万余の観衆を集め出演者も毎回 5000 人規模でした。現在のヨサコイソーラン祭りの原点ともいえると思います。
北海道地区での広告費の特徴は、全国レベルに比べて新聞広告費のウエイトが高い事で す。これは電波広告がコマーシャル料金の関係から、地元広告主よりも中央の広告主のウエイトが高いのに対して、新聞は、地元の産業広告(求人広告)や案内広告のウエイト が高いことに起因しています。中央広告主のテレビ広告に対する考え方が変わりつつある中で、これからの北海道テレビメディアにとつての営業課題は、広告費のシェアダウ ンを少しでも食い止めるためにエリアマーケッテイングの考え方を推し進めて中央広告主の関心を北海道市場に向けさせる事と、地域の振興と消費市場の活性化を進めて地 元広告市場の拡大を図る事が喫緊の課題となりつつありまさに、新聞広告とテレビ広告
の死闘が開始される時代背景でした。次表に見るように北海道においては新聞に占める 地元広告費のシェアがテレビに対してかなり差があり、北海道における民放営業の悲願は新聞広告費に大きなウエイトを占める地元広告費をいかにして電波広告に転用させ るかであり、この事はテレビの営業活動ににとっても大きな課題でした。その一つの試みとして取り上げられたのが1977年から'78年にかけて展開された テレビ各局の共同キャンペーンです。このキャンペーンの狙いはテレビ広告と新聞広告を比較して費用対効果の面からテレビ広告の優位性を訴え、新聞広告単独よりはテレビ 広告との併用によるメディアミックスの考え方を強調したものでした。このキャンペーンには HBC、STV、HTB 三局が共同で企画し、調査の実施等は電通北海道支社、ビデオリ サーチに委託しました。キャンペーンの具体的内容は「テレビと新聞」と言う小冊子の発行で、小冊子ではテレビの「視聴率」という調査基準に対し新聞広告が従来使用していた 「閲覧率」を「記事視覚率」と言う基準に置き換え、テレビと新聞とのコスト比較を行ったものです。そのためのデーターは地元 A 紙(北海道新聞)の朝・夕刊を対象に札幌全域か ら男女 3547 名に戸別訪問直接面接方式で行い 2219
名から回答を得ました。この小冊 子は1978年3月に発行されましたが、発行後全国的にも大きな反響を呼び電波・新 聞業界に新たな論議を巻き起こしたのです。1979年5月には日本新聞協会広告委員会からこれに反論する形でパンフレットが発行されました。その内容は次の七つの疑問 に答える内容から成っています。 ?テレビ CM にはデーターがあるのに新聞広告にはない?テレビのデーターは信用できるが新聞は信用出来ない ?新聞にだってテレビの視聴率と同じようなデーターか必要だ ?新聞広告の注目率は当然テレビの視聴率と比べるべきだ?注目率の小さい新聞広告は効果も小さい ?注目率と視聴率を比べるとテレビの方が安い ?新聞広告に関するデーターを新聞社は全部出すべきだ そう思っておられるとしたらそれはみんな大きな誤解です。
このような反論が加えられたものの、このキャンペーンがテレビ関係者に大きな刺激を 与え、新聞広告に変わりうるテレビ広告の新しい展開、CM の表現方法の開発、チラシ広告のテレビ化等各局が競って新しい企画の開発に取り組むきっかけを作った意義は大 きいものがありました。