第六章 平成新時代の
メデイア動向

Ⅰ 昭和から平成新時代へ

昭和63年来、ご高齢に加えて体調を崩され入院中の天皇陛下の病状も日々大きな関心事となり、放送業界ではXdayと称する崩御時の対応が縷々検討されていました。昭和63 年9月20日には重体説が流れ、年明けの昭和64年1月7日午前6時33分崩御され、この日を以て昭和時代は終わり、平成時代を迎える事となりました。崩御にあたり、ラジオ・テレビとも放送内容を全面的に変更し関連放送に終始し48時間CM挿入なしの放送を行いました。尚、2月24日には新宿御苑において[大喪の礼]が厳かに行なわれました。平成元年を迎えると衛星を巡る動きが慌ただしく、3月6日にはJC-SAT(日本通信衛星)5月13日にはSCC(宇宙通信)の打ち上げが予定される中、通信衛星を使用する番組供給会社、SNG(サテライト・ニユ-ス・ギヤザリング)、ビジネステレビ、PCM放送などの計画が逐次具体化されつつあり、まさに[衛星元年]と呼ばれるように放送業界・放送メディアが挙げて放送衛星時代における地上波の在り方を中心に活発な議論が進められ昭和から平成時代に移るこの時代、放送メディアもテレビ広告費をはじめメディアそのもののあり方や対応が大きな変貌期を迎えるまさに[多様化時代]を迎えました。

Ⅱ 拓銀の破綻と経済環境

平成新時代を迎えた北海道・札幌市の経済環境 1980年代の終盤、戦後最悪と言われた北海道の経済環境も、その後1988年(昭和63 年)以降景気の回復により上昇ムードの中に平成新時代を迎えました。その意味では1989年(平成元年)は北海道経済にとっては景気回復3 年目に当たり平成時代は順 調な船出となりました。1988年は前述のように公共事業、住宅建設、個人消費が極めて高い水準で推移し、この状況が1990年代に入ってもそのまま持続し好況感が漲っていましたが、1992年(平成4 年)以降は全国の経済の流れと同じく景気にも陰りが 見え減速化傾向が顕在化し、全体として低迷気味に推移しました。
特にこの時期北海道経済にとっての象徴的な出来事は1997年(平成 9 年)11月17日の拓銀の破綻でした。西暦1900年(明治 33 年)設立され爾来本道開発の歩みと共に常に本道の経済界・産業界のリード役として中枢的な役割を果たして来た北海道拓殖銀行の破綻は北海道経済に計り知れない影響を及ぼす処となりました。
左図は破綻前の拓銀本店です拓銀の破綻により営業権は北洋銀行に譲渡されその後円滑に金融システムが作動していますが、破綻により直接、間接に影響を被った様々な分野での処理がその後も暫くは続きバブルの傷跡の大きさを如実に示した出来事でした。電波広告もこれら経済環境とは切っても切れない関係にあり、現在の広告費の流れを検証する上でも平成年代初頭から10年間の北海道・札幌経済環境がどのように推移してきたかを分析することが極めて重要です。その一つとしてこの年代の実質経済成長率を北海道・全国と対比して下記にグラフ化して見ました。


実質経済生長率の推移上のグラフが示す様に1992年以降全国・北海道共にバブル崩壊の痛手を受けて実質成長率も極めて低率で推移しました。其の意味から言えば北海道経済は1992年不況のどん底に喘いだと言えると思います。それ以降北海道の成長を支える公共投資、観光が景気の牽引力となって全国平均よりは高い成長率を保持することが出来、その後景気は上昇局面に転じたものの1997年には再び全国的な景気後退によりマイナスに下降しましたが翌98年からは上昇を辿ってきました。北海道の過去の成長率を見ても1980年ー1985年は冷害に伴う影響を受けて81年・83年にはマイナス成長を記録しましたが、1985年後半入ってからは一転して高成長に転ずる事となりました。その後1990年代に入り緩やかな成長を持続してきましたが、1992年にはマイナス 0.5%、1997年にはマイナス 2.7% を記録しました。 札幌市の経済環境の中で眼を引くのはスーパーの売り上げが年々増加傾向にある事です。この現象は消費者の購買行動の変化と大型店の立地条件など新しい都市像を浮き彫りにしている証左でこの現象は札幌ばかりでなく全道各地にも見られるます。 この様にスーパー店の売上げが増加し併せてスーパー、コンビニ店が主要都市郊外型店舗として増加している背景には本道の地域性とも関係しており、カーショツピングの増加に伴う駐車場スペースの確保、物流等の立地条件もこれに拍車をかけているとも言えます。そう言う意味では北海道という広域圏でのマーケッテイング活動には全道に亙るスーパー・セルフ店への流通アプローチも極めて重要である事が理解出来るのです。

Ⅲ テレビ北海道開局とテレビ五局時代

北海道地区での最後のテレビ局として開局したのがテレビ北海道です。テレビ北海道開局に至る経緯について1989年10月1日の北海道新聞開局特集によれば、設立の動きは1985年に遡ります。同年6月当時の札幌商工会議所副会頭の伊藤義郎氏等が北海道にチャンネルプランを割り当てるよう郵政大臣に陳情を行いましたが、同年12月郵政省は全国のテレビ4局化と南北中枢都市の5局化を発表しました。そして翌1986年2月電波審議会がテレビ局置局可能地区として札幌・福岡市を加えた5地区が適当であると答申し、札幌地区に送信規模3KW、チャンネル17を割り当てました。直ちに申請 1 号として「テレビ札幌」の名前で伊藤義郎氏が申請しましたが申請社が176社に達したため、郵政大臣からその一本化の調停作業について北海道経済連合会四ツ柳会長に要請があり、結果1988年6月設立されたテレビ北海道が1989年10月1日北海道5局目のテレビ局として放送開始に至ったものです。テレビ北海道設立に当たり代表取締役社長には前述の伊藤義郎氏(札幌商工会議所会頭)が代表取締役社長に就任されました。このTVh の開局により北海道地区においても中央五局のネツトワーク体制が確立することとなり、年を追うごとに系列間を巡る競合状況は熾烈を極める事となりました。写真は現在のテレビ北海道(TVh)の本社社屋です。

Ⅳ エフエムノースウエーブの開局と AM・FM4 局時代

エフエムノースウエーブの開局と AM・FM4 局時代 一方ラジオについては1982年北海道地区第三番目ラジオ局としてエフエム北海道が開局しましたが北海道地区では1952年から HBC ラジオ 1 局時代、1962年の STV ラジオの開局により 2 局時代となり、そして1982年のエフエム北海道の開局、続く1993年にノ-スウエーブが開局し、ここで AM2局、FM2局の4局体制が確立しました。
北海道地区でのラジオ局は1962年のSTVラジオ開局以来20年ぶりで、第三局目のラジオ局としてFMラジオ局[エフエム北海道]が誕生した。同社誕生の経緯を北海道新聞40年史から引用して記述する。エフエム局の認可については、超短波放送用周波数の割り当て計画(チャンネルプラン)に基づき、1968年秋に第一次決定がなされたが、その後1978年12月の追加割り当てにより札幌にも置局が認められる事となった。この決定に先立ち札幌地区では同年1月より申請が相次ぎ申請件数は240社に達した。1980年5月郵政省は当時の堂垣内北海道知事に一本化の調整を要請し、知事斡旋により1981年6月20日一本化が成立し、新会社の発起人として今井道雄氏他7名が選出され、発起人代表に建部直人氏(北海道新聞)が選出され[(株)エフエム北海道]が設立された。1981年7月8日免許申請を行い17日には予備免許の交付され、1982年9月15日放送を開始した。放送開始時のサービスエリアは札幌・旭川を中心に全道エリアの74.5%であった。同社はその後1992年には愛称を[AIR-G”]と改めている。
 
1990年、所謂平成年代に入り新たにFMラジオ局としてエフエム・ノースウエーブが1993年8月1日開局した。同社の設立総会の記事が北海道新聞(1992.9.15)に記載されているので紹介する。この記事によると'92年9月14日開催され社長に地崎昭宇氏(地崎工業社長)を選任した。地崎社長は記者会見で[80%以上を音楽番組とし、来年八月頃旭川、函館でも放送を開始し、帯広、釧路でも出来るだけ急ぐ]と放送開始を明言している。開局時のサービスエリアは88万5千795世帯を予定となっている。

Ⅴ プロ野球[北海道日ハムファイターズ]の誕生とメディアの対応





2001 年 6 月 3 日建設費約 422 億円かけて建設中の[札幌ドーム]が竣工し、野球・サッカーを始め大型イベントが通年で開催されることが可能となりました。永年の道民の夢であったプロ野球の本道招致が実現したのが 2004 年です。これまで東京ドームを本拠地として来た[日本ハムファイターズ]が本拠地を新しく開業した札幌ドームにきめ[北海道日本ハムファイターズ]として誕生しました。当然ながら道内のラジオ・テレビ局はあげて中継放送を始め番組制作に積極的に取り組みましたが、わけてもAMラジオ局はこれまでもプロ野球のナイター中継が売り物だっただけにファイターズの試合を中心に番組編成を行いましたが、AM ラジオ局は全試合完全中継をモットーにネットワークの制作協力を仰ぐなど努力を傾注し聴取率の向上を図っており日ハムファイターズの進出はラジオ収入低減化が進む中で大きな救世主的存在と云っても過言ではないようです。

Ⅵ 地上波テレビのデジタル化


テレビアンテナが林立する手稲山山頂です(写真 は N・Y さんからお借りしました) 我が国の地上波テレビのデジタル化も、2002 年 には東京、名古屋、大阪地区で開始され 北海道地区では 2006.6.1 日からスターとしまし たが、2011 年 7 月 24 日東日本大震災に伴う一部 地域を除き全国の地上波テレビはデジタル化に完 全移行しました。地上波のデジタル化については北海道地区でもかなり以前から各社と もこの放送開始に向けての準備が進められ 2004 年 3 月には実験も完了しましたが、こ の実験には、NHK と道内民放各社、電機メーカー、自治体などが加わり、これらの団 体で組織された[道地上デジタル放送実験協議会]が、手稲山の送信アンテナを使って実 験を行ったものです。これらの実験結果を受けて、2004 年 11 月 30 日には、道総合 通信局と道内民放各社は、札幌圏での地上デジタル放送を 2006 年 6 月 1 日に始める ことを発表しましたが、更に民放各社は 2008 年度末までには道内主要地方都市での放 送開始を発表しています。2006 年の放送開始で視聴出来たのは札幌圏を中心に約 110 万世帯で、道内世帯数の 80%(185 万世帯)でしたが、翌 2007 年 10 月 1 日から函館・ 旭川などのエリアが拡大されて視聴可能な世帯数は 84.1%となりました。しかし北海 道という広域圏での完全デジタル化には、まだ 100 局の建設が必要であり、当時はこ の為の対応を巡って行政と放送事業者との間に議論が戦わされていました。2007 年(平 成 19 年)10 月 2 日の北海道新聞ではこの問題を取り上げ放送事業者は[全道をカバー するためにはまだ100局の建設が必要でありこのためには各社とも中継局や機材の 整備には 1 局あたり 100 億円前後の設備投資が必要で、100 億円以上の投資は 10 年 分の利益に相当する、地デジ移行は国の政策であり公的支援は当然]とする主張に対し、 行政サイドは[中継局整備は放送事業者の責任で 11 年までの整備を粘り強く求めたい] と答えていました。いずれにしても民放各社は難視聴対策を含めて更なる営業収益の安 定的な確保と経営の合理化が求められる事となりデジタル放送開始後も引き続きその 対応に追われて来ました。2011 年には地上波テレビの完全デジタル化が完成したこと により、その後のテレビ各社はデジタル放送時代に対応した番組編成の問題と併せて営 業活動の面でも新しい局面を迎えメディアの世界も急速に大変革の時を迎える事とな りました。