札幌の文化遺産(さっぽろふるさと文化百選)

おいらん淵

札幌市南区川沿地区にある[藻南公園]はかつて[おいらん淵]と呼ばれていましたが、昭和24年に現在の名前が付けられました。ここは豊平川の中流でこのあたり一帯は、今から約3万2千年前に支笏火山(現在の支笏湖)から流れてきた軽石流がここで止められたと言われています。その為か川の一方は札幌軟石の断崖が続き雄大な景観を描いています。また、川幅も広く深い淀みが出来激流が渦を巻いています。現在は市民の憩いの場として広く活用されている公園です。
[伝説・おいらん淵]は、豊平川の藻南地区にある[藻南公園]の中に標識が建てられています。この公園は豊平川沿いの中でも特に景観の美しい処です。この一帯は約3万2千年前の支笏火山(現在の支笏湖)から流れてきた軽石流がここで止められたと言われています。藻南公園は札幌扇状地の扇頂(扇状地の始まった部分で、写真で見える岩肌は[第三系の安山岩質だそうです。

藻南橋を渡って公園に入ると程なく左図の様な案内板があります。 この公園は昭和24年に造園され今の名前が付けられましたが、以前は[おいらん渕]として知られていた場所です。この名前の由来について案内板には次の様に書かれています(要旨)[右手花壇広場の崖下河原に佇立している岩の付近をおいらんふちと言う。この渕、豊平川の流れの中でも最も深く、又渦も清らかなよどみであった。明治の末期吉原より身請けされてきたおいらんが話と違う余りの寂しさに世をはかなみ着飾って身を投じ、短く哀しい一生を終えたという話からおいらん渕と言われるようになった(中略) この渕の断崖絶壁を眺めているとその昔おいらんと言う不幸な運命を背負った女性が身を投じたという話に実感がこもってくる] ★ この名前の由来については別の説も有るようです。

[薄野遊郭]

[すすきの(薄野)]の歴史は明治2年開拓使がおかれ札幌本府の建設が始まった時期に遡ります。
開拓使による札幌本府建設前まで定住者わずか 13 人だった札幌は、本府の建設作業に携わる労務者約1万人が集まり、俄かに活気を見せていましたが、彼らのほとんどは、一稼ぎし終えると本州に戻る傾向が強いため時の開拓使判官・岩村通俊は労務者対策として官営の遊郭設置に動き始めたものです。1871年(明治4年)、市街地建設に集まった数千人の職工や作業員の足止め策として、南4条から南5条の西3丁目-4丁目の二町四方に官許の[薄野遊郭]を設置しました。当時の記録によると散在していた女郎屋 7 軒を、現在の南4条〜5条、西3丁目〜4丁目の2町四方4ブロックに集め、周囲には高さ 4 尺の壁を巡らせ、出入りの大門も設置した大規模な「薄野遊郭」だったようです。記録によると最盛期の明治40年頃には遊郭が32軒、遊女は372ほどいたと書かれています。下の写真は有名をはせた[高砂楼(左図)][南里の西花楼(右図)]です。所蔵札幌市公文書館


豊川稲荷には[薄野娼妓並びに水子哀悼碑]が建立されています。

[すすきのまつり]の呼びものの一つ[花魁道中]の一コマです(T・Yamazakiさんからお借りしました)。