札幌護国神社[中央区南15条西5丁目]

神社全景
写真は札幌の護国神社です。この神社にも日清・日露を始め戦禍に散った多くの御霊が祀られています。[護国神社]の名前が付けられたのは昭和14年4月1日からです。札幌の中心[中島公園]の一隅に静かに佇んでいます。
天皇皇后両陛下参拝祈念碑
拝殿入り口には天皇皇后両陛下ご参拝記念碑が建立されています。昭和47年2月3日、冬季札幌オリンピックにご臨席の際参拝されたときのものです。
天皇皇后両陛下ご参拝記念碑に並んで[さざれ石]1があります。この石は昭和45年北見市の亀井林右エ門さんが奉納されたものです。

竹村まやさんの歌碑です。竹村さんは1899.11.20日旭川永山屯田兵村で生まれ、自らは産婆を開業し、札幌・北海道助産婦会長や、札幌市議・道議も務められ一生を社会福祉に捧げられた方です。また歌人としても数々の歌集を出版されています。1929.12.7日死去されました。
彰徳苑
護国神社の境内の一角に[彰徳苑]があります。ここには各戦争の慰霊碑などが数多く建立されています。その一つ一つに当時の戦禍の様子が記されており、改めて戦争の忌まわしさを思い知ることができます。
石柱 札幌招魂社
この神社は、明治10年の西南の役で戦病死した屯田兵を祀ったのが最初です。当時は[屯田兵招魂碑]と言われていましたが、その後日清・日露の戦病没者を合祀して現在地に[札幌招魂社]を造営し、これが護国神社になったものです。

彰徳苑の碑

アッッ島玉砕 雄魂の碑
アッッ島玉砕 雄魂の碑
[短きを何かなげかむ 君のため 御國のために 捨つる命は](玉砕兵士の遺作) この碑文には大凡次のようにかかれています[大東亜戦争も熾烈の度を加えつつあった昭和17年6月、日本軍はアリューシャン列島、アツッ、キスカ両島を占領し、北方よりの米軍反攻に備えていたが、翌昭和18年5月12日未明、突如米軍は陸海軍約2万余の大軍をもってアツッ島を攻撃して上陸してきた。日本軍は約2,600余名の守備軍で戦うも5月29日残り兵士も僅か数十名となり、山崎部隊長以下全員が玉砕した]。この碑は昭和43年7月29日に建立されました。
ノモンハン英魂之碑
ノモンハン英魂之碑
ノモンハン事件は、昭和14年5月11日から9月16日まで、日満軍対ソ連モンゴル軍が旧満州国ノモンハン地区の国境腺を巡って闘いを繰り広げたものです。本道からも1,500余名の兵士が参戦し戦死しています。この碑は昭和42年9月16日建立されました。
メレヨン島戦没者慰霊碑
メレヨンの戦没者 慰霊碑
メレヨン島は、西大西洋ミクロネシア連邦の小島群でこの島には昭和19年6,500人の日本軍が上陸して、米軍のB29による本土爆撃を牽制することを目的に活動を展開していました。しかしアメリカの攻撃で食料品や生活物資を失い、約5,000人の兵士が餓死と病死で亡くなりました。このうち1,400人は本道から参加した兵士です。
北千島慰霊
北千島慰霊
昭和20年8月15日、終戦大詔が発せられた後ソ連は突如占守島を攻撃しました。そのため約7,000名が戦死し、その他の兵士はソ連に抑留されることとなりました。 この慰霊碑は昭和50年8月23日建立されました。
北海道全海軍英魂之碑
北海道全海軍英魂之碑
この碑の左右に大きな錨があります。この錨は住友重工浦賀造船所から贈られたものですが、終戦時に横須賀海軍工廠で造船中の軽巡洋艦に備えられていたものだそうです。
この碑は、2011年6月護国神社の[彰徳苑]に新たに設置された碑です。コンクリート製のアーチの高さが4mで。アーチの中に黒御影石の中に[沖縄戦戦没者慰霊碑]と刻まれています。この碑の周りには戦没者の氏名を記した御影石の刻銘板が6基設置されています。

この碑は[屯田兵招魂碑]で、明治12年(1879)、西南戦争で戦病死した門松経文大尉と屯田兵36名を祀る招魂社として当初は開拓使が開設した「偕楽園」内(札幌市北区北6条西7丁目)にありましたが、明治40年(1907)に中島公園に移され、その後 現在の札幌護国神社に祀られています。碑は琴似・山鼻両兵村によって建立されたものです。

境内社 多賀神社


護国神社の正門を入ると左手に鳥居がありここが[多賀神社]です。この神社は、札幌護国神社の境内社として昭和24年9月28日に滋賀県多賀大社から御分霊を頂き多賀神社の大神として鎮座しています。この神社には、伊邪那岐大神 伊邪那美大神 相殿奉斎(旧山鼻神社) 天照大御神 大山祗大神 天満宮大神 耳早立雄大神の神々が祀られています。
昭和46年5月1日には、山鼻神社の神を迎え相殿にお祀りしています。



多賀神社の相殿です。入り口にある[ご縁の石です。







旧 山鼻神社
彰徳苑の中に建立されている[山鼻神社碑]です。
[山鼻神社]は、明治23年5月南22条西13丁目(現在の中央図書館のある一帯)に創建されその後南8条西13丁目に移り昭和46年5月1日現在の多賀神社に合祀されたものです。

この碑(祠)は、[山鼻神社碑]の後ろにあります。ここには[山鼻神社碑][天満宮費][耳早立雄之神碑][大山祇大神碑]が建立されています。側にある山鼻神社由来書によれば、この碑は明治9年2月藻岩山麓の中腹に建てられたもので屯田兵が山鼻に入植する以前に創建され、平成2年9月3日に護国神社に移されたものです。