JR函館本線で札幌から3つめの駅[発寒中央駅]をおりると直ぐ北側に大きな鳥居が目に入ります。稲荷通沿いにまつりの幟がひらめき境内の両側にはおまつりに無くてはならない屋台が開店準備中、又地域の多くの方がまつりの準備に大童です。(秋の例大祭の前日の画像です)
この神社の歴史は古く1856年(安政3年)に蝦夷地開発の幕命により山岡精次郎ら17名がこの地に入植し[稲荷社]を創建した事に始まりますが、その後明治8年に屯田兵32戸が入植して明治31年に伊勢大神宮から豊受大神の分霊を拝賜して、同36年[発寒村稲荷神社]から現在の[発寒神社]に改称したものです。因みに祭神である豊受大神は、五穀豊穣の神で、開拓者達も五穀豊穣を祈りつつ永い歴史の中で崇め続けてきた神社で、札幌市の西区総鎮守としての伝統を守り続けています。
境内にはステージが設けられていますが、[発寒神社演舞場]という常設のステージです。この演舞場のつくられた由来はわかりませんが、かつての[篠路歌舞伎]の様な農村文化が盛んで芸能発表の場としてつくられたものかも知れません。おまつりには地域の人々の盛り上がった演技が見られるのでしょう。演舞場の隣には立派な土俵も設けられています。かつての相撲王国北海道も完全に廃れた現在、子供達の相撲に対する関心を盛り上げることが不可欠です。
記念碑
拝殿の直ぐ脇には[史跡 環状石垣之跡]碑が建てられています。昭和7年に現在の神社と道路を挟んで向かい側にある発寒小学校付近から石器や土器が発掘されましたがその折、この場所からもストンサークルが発掘された様です。この遺跡は、墳墓や環状列石(ストンサークル)で10世紀前後の古代遺跡です。
発寒神社の拝殿の脇の木立の影にいくつかの碑が建てられています。この碑は[発寒屯田兵移住百年記念碑]で、1876年(明治9年)32戸の屯田兵がこの地に移住したのを百年後に記念して建てられたものです。
その隣には[発寒移住記念碑]が建てられています。この碑は、1857年(安政4年)幕臣20人がこの地の開拓を命ぜられて入植したのを記念した碑です。いずれの碑も発寒の150年にわたる永い歴史の足跡がこれらの碑に凝縮しており歴史の重みをひしひしと感じさせてくれます。