★安政4年(1857年)銭函から豊平を経て千歳に至る 道路 開通 (札幌本道の前身)。 ★明治6年(1873年)札幌本道開通(現在の国道36号)、 最初の入植者長岡重治が移住。 |
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パネルに見る[開拓に尽くした先駆者達] |
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吉田善太郎(1861-1916) 吉田善太郎は、文久元年(1861年)陸奥の国南岩手郡上田村に生まれる。10歳の時に北海道に移住し、月寒村東10番に住んだ。その後明治20年開拓史から大谷地の地23万余坪の借下げを受け、[吉田用水]の造成などで開拓に力を尽くした。また、牧場なども経営して乳牛の改良にも努めた。現在の[八紘学園]内の栗林記念館も彼の住居跡である。大正5年(1916年)56歳で白石の地で死去。 |
アシリベツ地区は水田地帯として飛躍的に発展したが、その土台を築いた先人の一人として挙げられるのが吉田善太郎である。 吉田等はこの土地を開墾するために厚別川から大谷地を通って月寒川に至る2613間(5q)の幅4m、深さ2mの用水路を4カ月で完成させた。それが吉田用水または善太郎用水と呼ばれており、現在も吉田川として名残を留めている。吉田用水の完成によって、水田開発と米作りは、その後もさらに広がりこの地区は豊かな水田地帯へと発展していった。この用水の開削30年を記念して、大正8年に建立されたのが吉田用水記念碑である。 |
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中山久蔵(1828-1919) 中山久蔵は、文政11年(1828年)河内国石川郡春日村で生まれる。25歳の頃仙台藩藩士片倉英馬の下僕となつたが、その後北海道開拓を志し、勇払、島松で開拓に従事し、島松で駅逓を開業した。 明治期において北海道で初めての米作りを成功させた先駆者である。 |
開拓使は、アメリカ型の農業をめざし開拓者たちが米づくりをすることを禁止しましたが、1873(明治6年)に中山久蔵が、島松川のほとりに10アールの水田を開いて、6俵弱(約345キロ)の米を初めて収穫することに成功しました。北海道でも米が作れることを確信した久蔵は、北海道でも米が作れることを天下に示したのです。このような事から中山久蔵は北海道における米作りの先駆者として後生にその名を留めています。写真左は[旧島松駅逓]です。この駅逓は、現存する最古の駅逓で中山久蔵宅だったものを、開拓使が駅逓に定めたものです。明治14(1881)年の明治天皇北海道行幸の際には、御昼行在所に充てられました。 |