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1868年(明治元年)江戸時代がおわり、日本は明治維新へ。新しい時代の幕明けとともに北海道の開拓が始まった。それは近代国家・日本を支える産業を育てていく事業でもあつた。多くの人々が新たなる時代への夢と情熱を北海道の大地に注ぎ、そこに時代に繋がる日本のビール事業が誕生していった。
パネル[ビールづくりの想い、北海道の大地へ]から引用。

開拓使麦酒醸造所の開業式の記録この写真はパネルとして掲載されていたものですが、1876年(明治9年)9月23日、開拓使麦酒醸造所の開業式の記録です。右手に高く積まれたビール樽には[麦とホップを製す連者(れば)ビイルという酒になる開業式]と書かれています。この写真の原板は北大に所蔵されていると言うことです。
所蔵 北大付属図書館

歴史

1876年6月、開拓使はドイツでビール作りを学んで帰国した中川清兵衛氏を主任技師としてビール醸造所の建設に着手した。翌1877年には開拓使のシンボルである北極星をマークとした冷製[札幌ビール]を発売した、これがサツポロビールの発祥である。
その後1886年北海道庁設置に伴い麦酒醸造場(これまでの醸造所が改称された)は、大倉喜八郎氏の大倉組に払い下げられたが、翌1887年12月渋沢栄一、浅野総一郎氏等が大倉喜八郎氏から麦酒醸造場を譲り受け札幌麦酒会社を設立した。一方東京では1887年9月日本麦酒醸造会社が設立され1890年2月には[恵比寿ビール]を発売したが、これがサツポロビールのもう一つの源流となっている。
1900年代初期にはそれまで全国に数多く存在していたビール醸造所も淘汰され、札幌・日本・大阪(旭ビール)・麒麟麦酒の4大会社が激烈な競合状態にあつた。このような状況下、日本麦酒の馬越恭平氏は1906年、札幌、日本、大阪麦酒の三社を合併しシェア70%台の大日本麦酒株式会社を発足させた。その後戦後に至り1949年9月大日本麦酒株式会社は[過度経済力集中排除法]の指定を受け、日本麦酒と朝日麦酒の2社に分割された。日本麦酒は新発足後[ニッポンビール]の商標でスタートしたが、愛飲家の要望に応えるかたちで商標を[サッポロビール]と改め、1964年1月社名もサッポロビール株式会社と改めた。
写真(左) 開拓使麦酒醸造所写真(右) 増築工事完了後の札幌工場(1892年・明治25年)<展示パネルより>

開拓使麦酒醸造所サッポロビール工場