かつての札幌を代表する商店街[狸小路]、開拓使によつてつくられた[薄野遊郭街]も永い歴史の中で大きく変貌し、新しい商店街、歓楽街として力強く生き続けています。 |
明治2年開拓使がおかれ札幌本府として札幌の街づくりが進められました。明治4年には市街地の区画が決められましたが、その範囲は現在の南1条から南4条まで、西は5丁目、東は3丁目迄でした。この街づくりに合わせて明治4年には現在の南1条から南3条にかけて、210戸の町並みが形成されていました。特に現在の南1条通には旅人宿が立ち並びこれらの宿は[飯盛女(私娼)]を抱えていたため中心部としては風紀上からも好ましくないとの事から[遊郭地]を設けて移動させることとして[薄野]か選ばれました。[狸小路]もこの影響を受けて移動してきた店が発祥となつたと云われています。写真は、建設が進んだ明治10年代のものですが中央の広い通は[日高・渡島通(現在の南1条通)]です。[北海道大学付属図書館所蔵] 草創期の狸小路明治6-7年頃には、男をたぶらかして金を儲ける女達、所謂白首(ごけ・売春婦のこと)が多くなり、一帯は[白首小路]と呼ばれる様になっていました。男をたぶらかす、化かすことから、やがて[狸小路]と呼ばれる様になったと言われています。当時の狸小路は[白首]と呼ばれる売春宿、落語家による[寄席]、そして明治のスーパーマーケットとも言うべき[勧工場]の三つを大きな柱として形成されていました。明治6年には松本代吉によって南3条西2丁目に[東座]という芝居小屋が建てられそれがきっかけで白首が出始め大変賑わいを呈してきたようです。しかし明治25年の大火を契機に白首屋は姿を消すようになりました。また、当時の狸小路の一つの名物とも云うべき[勧工場]は、明治18年4月に柿村信蔵が狸小路の3丁目に最初に設けたものですが、25年の大火後は、再建された第一勧工場の隣に札幌商館(勧工場)が開業して[勧工場]は、狸小路の代名詞になりました。下の写真は[札幌繁栄図録(高崎龍太郎・財界さっほろ)]から引用させて頂きました。
明治末期から大正期の狸小路明治25年の大火は狸小路のみならず札幌市街にも甚大な被害を及ぼしましたが、大火後復旧が進められ勧工場等の店舗の新築が進み商店街としての形が整えられてきました。明治32年発行の札幌案内の記事には次のように記述されています[狸小路は、勧工場、雑貨商、乾物屋、古本屋、小料理店、蕎麦屋、寄席などありて夜間すこぶる雑踏を極め、南するに従い繁栄の度次第に減じて薄野遊郭に至れば所謂不夜城の光景狸小路と同じく夜間の雑踏を幻出す]。
所蔵 札幌市公文書館 戦後再デビューを果たした狸小路記録(狸小路のホームページ引用)によると狸小路は戦前は200軒以上の商店が軒を連ねていましたが、戦中転廃業が進み敗戦直前にはその数も6〜70軒を数える様な状況となりました。加えて昭和20年7月には1丁目、4丁目、9丁目、10丁目などが強制疎開の対象となる等、狸小路は闇市と化し、多くの露天商が出現して[青空市場]と呼ばれるようになっていました。その狸小路も昭和21年から22年にかけて戦中転廃合したり休業していた店舗も続々と再開し始めました。昭和22年11月18日には札幌狸小路商店街商業協同組合も設立され、商店街の活性化に向けての努力が払われ商店街として大きく発展してきました。この間、昭和2年には[すずらん灯]が設置され一躍狸小路の顔となりました。その後゛昭和11年には、すずらん灯の上にネオンが取り付けられ、華やかなイメージを醸し出しました。年配の方はきつと思いだしていただける事と思います。残念ながら戦時中は撤収されましたが、昭和24年に復活しています。これがベースとなって昭和33年にはアーケードが設置され現在に至っています。
すすきのの今昔[すすきの(薄野)]の歴史は明治2年開拓使がおかれ札幌本府の建設が始まった時期に遡ります。開拓使による札幌本府建設前まで定住者わずか 13 人だった札幌は、本府の建設作業に携わる労務者約1万人が集まり、俄かに活気を見せていましたが、彼らのほとんどは、一稼ぎし終えると本州に戻る傾向が強いため時の開拓使判官・岩村通俊は労務者対策として官営の遊郭設置に動き始めたものです。1871年(明治4年)、市街地建設に集まった数千人の職工や作業員の足止め策として、南4条から南5条の西3丁目-4丁目の二町四方に官許の[薄野遊郭]を設置しました。当時の記録によると散在していた女郎屋 7 軒を、現在の南4条〜5条、西3丁目〜4丁目の2町四方4ブロックに集め、周囲には高さ 4 尺の壁を巡らせ、出入りの大門も設置した大規模な「薄野遊郭」だったようです。現在の呼び名になっている[すすきの]という地名の由来については、「辺り一面が茅(芦や薄の類)におおわれていたため」という説が一般的ですが、「遊郭完成に奔走した薄井竜之の功を称えるため、岩村判官がその姓から一文字をとってつけた」という説もあるようです。明治5年岩村判官は、今度は官営の巨大妓楼(女郎屋)開業へと動き出し(最終的には民間に払い下げる形となる)建坪 193 坪の堂々たる「東京楼」を現在の南 6 西3に開業 、榎本武揚ら多くの高官接待にも使われていたようです。 明治4年当時の[すすきの]の様子です。 (所蔵 北大付属図書館) 当時の郭街 写真は[札幌繁栄図録(高崎龍太郎・財界さっほろ)]から引用させて頂きました。 写真左は[高砂楼]明治42年刊最近之札幌より転載。 写真右は[南里の西花楼]明治41年刊札樽便覧より転載。 所蔵 札幌市公文書館 遊郭移転後の歓楽街すすきの開拓使によって設置された[薄野遊郭]界隈も大正期には市街の中央になり、大正7年開催開道50周年記念博覧会の会場が中島公園に決まり、観客はこの遊郭街を通り抜けなければならない事から、遊郭の移転が決定し明治6年に新たに札幌区に編入した白石町に移転し[白石遊郭]と呼ばれるようになりました。遊郭の移転に伴いその後すすきのは、全国的にも有名な歓楽街として年々発展を遂げ、今日では近代ビルが林立する歓楽街としてかっての面影は殆ど見ることが出来なくなりました。
歓楽街
歴史を留める建造物
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