黒田清隆

プロフイール

明治3年に開拓次官、後に開拓長官に就任した黒田清隆(くろだきよたか)は、天保11年(1840年)、薩摩の国鹿児島城下で薩摩藩士の黒田仲左衛門清行の長男として生まれました。文久3年(1863年)の薩英戦争、慶應4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いなど数々の戦争に参加した後明治3年(1870年)5月には樺太専任の開拓次官に就任し、北海道視察を行った結果北海道開発の重要性を認め大きな力を発揮しました。明治4年(1871年)1月から5月までアメリカ・ヨーロツパ各国を視察し、旅行中外国からもケプロンはじめ多くの専門家を招聘、また、官営事業なども積極的に推進しました。 明治2年(1869年)蝦夷地は北海道と改められ、北方開拓のため開拓使が設置されました。三代目の長官に就任した黒田清隆は、明治3年から明治15年までの間、北海道における殖産事業の振興に大きな力を尽くしました。今日の札幌が経済・産業面でも大きな発展を見せているのもこの時代の施策が大きな原動力となつています。黒田長官は、これらの事業を推進するため多くの外国人の招聘にも尽力され、[官園][官営工場]などの建設などを積極的に推進されました。所蔵 北大付属図書館[明治大正期の北海道写真編]より転載

黒田清隆が招聘したホーレス・ケプロン

 北大付属図書館[原写真所蔵]

大通公園黒田清隆像大通公園10丁目に、ホーレスケプロンの像と並んで建立されている黒田清隆の像は昭和42年の北海道開道100年を記念して建てられ、制作は雨宮治郎、題字は当時の知事町村金五が揮毫しました

黒田清隆の殖産事業

黒田長官の要請を引き受け北海道開拓顧問を引き受けたアメリカの農務長官ホーレス・ケプロンは、通算4年にわたり北海道開拓に大きな功績を遺されました。東京に続いて札幌にも設置された[官園]は、その後一部が札幌農学校に移管され現在に及んでいます。
左図は、札幌工業局器械所の写真ですが黒で清隆は、ケプロンの献策に基づき札幌の大通-北1条、東1丁目-4丁目の約三町四方を工業ゾーンとして様々な工場を建設しました。サッポロビールの原点でもある開拓使麦酒醸造所など現在も当時の面影を留めています。所蔵 北大付属図書館

札幌農学校と[モデルバーン]

モデルバーンの由来書
黒田長官の殖産事業の中で[札幌農学校]の果たした役割は極めて大きなものがありました。その中でもクラーク博士の発想と指導で明治10年建設された[第2農場]は、北海道開拓の模範農場として大きな足跡を残しています。現在北大構内に[モデルバーン]として保存されています。農場に入ると、農場の由来についての説明ボードがあります。ここには大凡次の様に書かれています[この農場はW・Sクラーク先生の大農経営構想に基づいて明治9年(1876年)9月13日にCollegeFarmとして開場した。クラーク後のW・Pブックス先生は現在のポプラ並木一帯を第一農場、当農場を一戸の酪農家をイメージした模範農場として第二農場を開設した。中でも模範家畜房と穀物庫は明治10年(1877年)に落成した我が国では最古の洋式農業建築として建築学的にも貴重なものである。当初は現北大正門付近にあつたが、明治42年から44年にかけて現在地に移転したものである]。

開拓使麦酒醸造所

開拓使麦酒醸造所開業式開業後のビール工場
当時の官営工場の中でも大きな脚光を浴びたのが[開拓使麦酒醸造所]です。写真左は、開業式、右は開業後の工場です(所蔵 北大付属図書館)。

開拓使麦酒醸造所の変遷



1876(明治9年9年9月23日開業した麦酒工場はその後幾多の変遷を経て現在のサッポロビールとして発展しています。当時の面影を残す建物は現在も[札幌フアクトリー]の中に現存しています。写真は、かっての開拓使麦酒醸造所で現在は見学館として利用されています。