三木 勉

プロフイール

三木 勉(みきつとむ)は、1871年(明治4年)宮城県白石藩士とその家族600名のリーダーとして北海道に渡り、その内の三木勉以下241人が上手稲(現在の手稲区宮の沢)に入植しました。この時三木は34才でしたが学識豊かで情熱をもつて村の開墾にあたる傍ら、教育にも異常な情熱を注ぎ自宅を塾に解放して子弟の教育に当たり地域の教育面で大きな功績を遺しています。三木はその後明治19年1月から翌20年4月まで第三代目の豊平村戸長を、ついで20年5月から約5年間を千歳村戸長をつとめています。札幌開拓の先駆者として教育・行政面で大きな役割を果たした三木は、明治28年1月6日東京において57才の生涯を終えています。

開拓記念碑

開拓記念碑手稲記念館の前庭に建立されている開拓記念碑です。三木勉がリーダーとして241人が入植する以前は、この地は発寒村の一部でしたが、入植を機に独立して手稲村となりました。この記念碑はこれら先人の遺徳を偲んで建てられたものです。

手稲記念館

手稲記念館地下鉄東西線[宮の沢駅]からほど近い場所に[手稲記念館]があります。かなり広いスペースで[資料展示室]が設置されて、ここには、手稲村の歴史が、政治、開拓、教育、文化、自然などのジャンル別に展示されています。三木勉をリーダーとする241人が入植以来心血を注いで努力した開墾作業、当時の農機具などの展示から当時の想像を絶する苦労が偲ばれます(写真上図)。

三木 勉と[時習館]

手稲教育発祥の地札幌から小樽に向かう道々を走ると円山西町19丁目の[中の川]の橋に出会います。この川の周辺が[中の川公園]です。この中に、さっぽろふるさと文化百選にも選定されている[時習館記念碑]が建立されています。[さっぽろふるさと文化百選 時習館ゆかりの地]の案内板が設置されています。此処には大凡次の様に書かれています。[明治5年(1872年) 旧白石藩の47戸が上手稲に入植し、その中の一人三木 勉は自宅を私塾として開放し[時習館]と名付け子供の教育にあたった。(現在の西区西町北18丁目あたり)。時習館はその後[手稲筆算所]としてこの地に移り、現在の手稲東小学校に引き継がれている]。
時習館記念碑公園内に建立されている記念碑です。この碑は、手稲町と札幌市が合併を控えた1967年(昭和42年)2月20日に時習館ゆかりの地に建立されました。学制が施行されたのが1872年(明治5年)ですが、この当時札幌には、資生館(現資生館小学校)、善俗堂(:現白石小学校)、そして時習館(現手稲東小学校)の3校がありました。碑の台座には、時習館命名のゆわれが記されています。これによると[学んで時に習う]と言う中国の古語を引用して命名された様です。この時習館の創始者である三木 勉が開いた私塾は、間口4間、奥行き6間の茅葺きの建物で、最初の入学児童は7名でしたが、札幌の学校の嚆矢をなすものとして注目されました。その後児童数も増え3年後には30名に達しています。このような三木 勉と弟の格の献身的な努力が認められ、明治11年(1878年)には[公立上手稲教育所]が創設されその後上手稲小学校(現手稲東小学校)になつています。