石山通 2(山鼻・藻岩下)


石山通地図[石山通]を南に進むと[山鼻エリア]です。左図のように[石山通]を中心にして、東西に市電が走り、この通りと交差して[菊水旭山公園通(南9条通)][米里行啓通(南14条通)][豊水通(南17条通)][環状通(南19条通)][白石藻岩通(南22条通)]が東西に走っています。
[山鼻エリア]は、明治3年に東本願寺の山鼻管刹所が10万坪の開墾地をもらい、和歌山県から農家2戸を移住させたのが始まりですが、同9年には屯田兵とその家族240戸1,114人が東北地区などから移住し、琴似に次ぐ二番目の兵村として誕生しました。この[山鼻兵村]は、札幌本府に最も近く、当時不振であった本府経営の活発化を計ると言う目的も持たされていました。このため、軍務および開拓という本来の使命の他に憲兵という本府および札幌周辺の治安維持と非常災害救助という警察業務も兼ねていたのです。また、山鼻兵村は琴似兵村とともに、この後に続く兵村建設の模範あるいは基準作りの目的も持っていました。
山鼻兵村の区画割りは、石山道路(現在の石山通)を南北に一直線を基線としてその中に約130万坪の地積を用意しました。そして石山道路を10間幅としてそれに平行して両側に6間幅の道路を設け、その東側を[東屯田通り]西側を[西屯田通り]と名付けました。そして兵村の中枢機関である週番所(後の中隊本部)を中央部(現在の山鼻小学校前)に配置していますこのように屯田兵によって開拓が進められた山鼻には歴史を留める多くの碑や像が保存されています。
祖霊神社
札幌祖霊神社[石山通]からは少し離れた市電との間にある神社です。
(南5条西8丁目)

案内表記
東本願寺札幌別院
浅野邸を南に進むと南7条西8丁目に東本願寺札幌別院があります。広い敷地の中に本堂を始め書院・納骨堂・ホール・幼稚園の他に墓地もあります。写真下左図の山門は1914年9月(大正3年)落成したものです。この別院の歴史は、1870年(明治3年)当時19才の現如上人を責任者として随員百数十人と共に北海道の開拓、開教に着手したことに始まります。1870年7月、東本願寺管刹寺として設立されその後1976年(明治9年)札幌別院と改称されたものです。写真下右図は、本堂ですが、現在の本堂は明治25年秋に落成したものです。御本尊は慈覚大師の作と言われている[阿弥陀如来立像]で、明治34年9月に新潟県直江津市の林覚寺から寄贈されたものだそうです。この他にも宗祖聖人、聖徳太子、七高僧、蓮如上人の御影が祀られているそうです。ここが明治時代からの念仏の中心道場でした。



山鼻公園
[石山通]に戻って南に進むと[行啓通]です。東西を走る南 14条の幌平橋から石山通までを別名「行啓通」と呼んでいます。明治44年(1911年)に山鼻を視察するために来道された当時の皇太子(後の大正天皇)が通ったことからそう呼ばれるようになりました。下図は、[行啓通]の南側にある現在の[山鼻公園]です。この公園には[山鼻兵村開設碑(右図)]があります。この碑は明治27年9月30日に建立されものですが、この題字は当時の屯田兵司令官永山武四郎の筆によるものだそうです。この公園はかつての練兵場の一部で、南14条の道路(行啓通)を挟んで北側にある小学校も屯田兵の練兵場として使われていました。公園の中には樹齢を重ねた大木が数多くあり僅かに当時の面影を偲ばせてくれます。

山鼻公園

明治天皇御駐蹕之地碑 この碑は、明治14年の明治天皇行幸の折、真駒内から山鼻兵村を訪れた時の記念碑です。碑は、現在の南14条西11丁目石山通に面した[山鼻小学校グランド]の片隅に建立されています。屯田兵村時代此処は練兵場や中隊本部があった縁の地です。[御駐蹕]とは、天子の行幸の途中、一時乗り物を止める事の意味だそうです。
山鼻記念館この小学校に隣接した場所に[山鼻記念館]の建物があります。この建物の2階が展示室で、屯田兵に関する様々な資料や貴重な写真類も飾られております。
山鼻屯田兵の像南29条西11丁目[石山通]に面して建立されています。
札幌護国神社
[山鼻記念館]の前を東に進むと、左手が[中島公園]で、右手には[札幌護国神社]があり神社の境内の一角に[彰徳苑]があります。ここには各戦争の慰霊碑などが数多く建立されていますが屯田兵に関する慰霊碑も建立されています。

札幌護国神社

六華の門

札幌南高等学校百年記念館六華の門記念碑山田幸太郎先生像

現在の南校の歴史は古く、1895年(明治28年)4月、札幌区(現在の札幌市)北10条西4丁目に、札幌尋常中学校として設置されたのが始まりです。1922年(大正11年)7月、現在地である南18条西6丁目に二代目校舎が落成しました。写真は、百年記念館ですが、この門は、母校の90周年を記念して復元され[六華の門]と名付けられています。正門前には[六華の門由来]とかかれた石標が設置され、裏面にその由来が刻まれています。写真右図は、山田幸太郎先生像です。
杉野目邸
札幌の藻岩山裾に広がる南19条西11丁目の杉野目邸です。この邸宅は、[さっぽろふるさと文化百選]にも指定された文化財ですが、北大の学長を務めた理学部の創設者としても名高い杉野目貞晴博士の邸宅で、近くには幹線も走り交通量も多い場所ですが静かな佇まいの中に美しい姿を見せています。邸宅前は、札幌を南北に走る12丁目通です。この東側に[石山通]が走っていますがかっての屯田兵村は、この石山通を基点にして東西に屯田兵屋を整然と建設しましたので、この杉野目邸もかっては屯田兵村の兵屋跡かも知れません。



[石山通]を南に進むと南22条です。ここでは[白石藻岩通]と交差して、市電も走行しています。写真下左図は、札幌都心部を俯瞰したもので、下右図は、藻南方面を俯瞰したものです。左手は、自衛隊の総監部など自衛隊関連施設が続きます。

南21条付近の石山通

南22条の[白石藻岩通]を西に進むと直ぐ左手が[中央図書館]です。この図書館は、北海道教育大学札幌分校跡地に建てられ、1991年オープンしました(写真下左図)。図書館の裏手に広がる[やまはなサンパーク]です(写真下右図)。

中央図書館やまはなサンパーク

中央の大木の並木道を挟んで西側が[やまはなサンパーク]、東側が集合住宅団地の[山鼻サンタウン]です(写真下左図)。この団地は北海道住宅供給公社の分譲マンションとして平成3年に完成しました。敷地面積が28860uあり戸数も466世帯の大団地です。団地内には商業施設やスポーツ施設もあり、又、藻岩山麓の散策コースも間近で、快適な生活空間です。写真下右図は、藻岩の山並みをバックに立ち並ぶマンション群です。この突きあたりには、[福住桑園通]が走っています。

山鼻サンタウン藻岩山麓のマンション群

写真下左図は、自衛隊北部総監部正門。写真下右図は、北海学園大学工学部のキャンパスです。

自衛隊北部方面総監部北海学園大学工学部

[石山通]南30条では先ほど紹介した[福住桑園通]と交差しています。この通を少し進むと山鼻川に架かる[ふれあい橋]です。この橋の下流が[山鼻川緑地]で、山鼻川はこの先で豊平川に合流します(写真下左図)。写真下右図は、[ミュンヘン大橋]で、この前の道路が[福住桑園通]です。[ミュンヘン大橋]は、札幌市とドイツ[ミュンヘン市]との姉妹都市15周年を記念して平成3年(1991年) 完成した橋です。この橋の特徴は[斜張橋]と呼ばれ橋長171,7m、幅長22,0mで、この橋に設けられているバルコニーには、ミュンヘン市の有名な建物を描いた片面3面のレリーフが飾られています。

山鼻川緑地ミュンヘン大橋

上山鼻神社
[石山通]を南に進むと南32条付近の山間に[上山鼻神社]の鳥居が現れます。この神社の敷地の近くには山鼻川が流れ、北海道電力の藻岩山ダムもあります。この神社の石柱の近くには、ダム工事で亡くなった方を慰霊する慰霊碑なども建てられています。この神社は自然の中に造営された神社で通常の神社というイメージではありませんが、それだけに野趣に溢れた時代的な重みさえ感じさせてくれます。この鳥居からなだらかな石段の参道を登ると正面に神殿が現れます。(写真下右図)

上山鼻神社上山鼻神社社殿

上山鼻神社の社殿です。山裾を削り取って造営したのでしょうか、社殿がすっぽりと山裾に埋まっている趣です。祠は小さくともなかなか立派な造りです。

[上山鼻神社]の鳥居前を山鼻川に沿って少し歩くと、北電藻岩発電所があります。下右図は、山頂から水を発電所に送っている送水管です。

北電藻岩発電所送水管





藻岩犠牲者の碑殉職者の碑構内の祠

写真上左図は、藻岩犠牲者の碑です。中央図は、殉職者の碑です。右図は、発電所構内に建立されている祠です。
[藻岩犠牲者の碑]
この碑は、南30条西10丁目の石山通(札幌から定山渓に通ずる幹線)のすぐ側に建立されている北電藻岩発電所建設工事の犠牲者顕彰碑です。昭和11年完成した 当時の北海水力電気株式会社の藻岩発電所と、翌年完成した藻岩浄水場にこの奥の[簾舞]ダムから地下導水路を建設するための工事で多くの犠牲者が出ました 。これを慰霊するために建てられたものです。
[殉職者之碑]
この碑も同じく石山通から僅かばかり西に位置する[山鼻川]のほとり、上山鼻神社に隣接して建立されています。これは、発電所の工事で亡くなられた北電職 員の慰霊碑で昭和32年8月に建てられたものです。題字は当時の北電社長藤波 収さんが書かれたものです。

明治大帝ご巡幸之碑
[明治大帝ご巡幸之碑]
この碑は、南35条西10丁目[みゆき公園]の一隅に建立されています。明治14年明治天皇は真駒内放牛場を行幸された後に上山鼻渡船場に架設された仮橋を渡り 西10丁目をお通りになつて山鼻兵村に向かわれました。これを記念して建てられたものですが、今でも[みゆき通]の地名が残っています。揮毫は北大総長の佐 藤昌介さんが書かれたものです。