プロフイール
開拓使時代、北海道の殖産事業の振興を図るため外国から幾多の専門家が招聘されました。中でもクラーク博士は、札幌農学校の創始者として良く知られていますが、余り名前も知られていない隠れた先人達も沢山おりました。その中から現在の時計台を始め幾多の建造物の建設に多くの功績を遺した、ウイリアム・ホイラーにスポツトを当てて見たいと思います。ウイリアム・ホイラーは、アメリカマサチューセツツ農科大学でW・S・クラークの愛弟子でしたが、1876年(明治9年)6月29日、クラークと共に来日しました。丁度この年の8月14日に札幌農学校が開校し、ホイラーは、数学、土木工学、英語を担当する傍ら開拓使の土木顧問としても指導にあたっていました。ホイラーは渾名を[山羊]と呼ばれ学生間には大変な人気教師でしたが、大変な人格者でした。クラーク博士の後を継いで二代目の農学校の教頭を務めるなど数々の功績を遺し現在の札幌の基盤を作ったホイラーは1879年(明治12年)12月に任期を終えて帰国しました。所蔵 北大付属図書館
[明治大正期の北海道 写真編]より転載。
札幌農学校演武場の建設
札幌農学校が開校して演武場が必要となり、1878年(明治11年)6月工事が始まり同年10月16日落成しましたがこの建設の指導に当たつたのがホイラーでした。当初の演武場は現在の時計台からやや北寄りの北2条西2丁目にありました。明治13年に時計が据え付けられ[時計台]と呼ばれる様になりました。
左図右の建物は日本最初の農業高等専門学校として1876年(明治9年)8月にクラーク博士を初代教頭に迎えて開校した札幌農学校の演武場です。この演武場が完成したのが1878年(明治11年)10月16日です。この時計台に設置されている時計塔には1881年(明治14年)に米国ボストン市ハワード時計会社製の時打ち重鐘式の大時計が備えられています。8月12日の正式鳴鐘以来現在も往事のまま時を告げています。まさに時計台の鐘は札幌のシンボルです。所蔵 北大付属図書館
北大博物館とホイラー
現在北大構内には[北大総合博物館]が旧理学部の学棟のなかにありますが、この博物館のルーツを辿ると、1871年開拓使判官岩村通俊の命令で開設された、札幌で最初の公園である[偕楽園]の中に設置された[博物場]です。又、ホイラーは農学校の演武場にも博物場を設置し道内各地から標本を収集し内容の充実に努めました。1884年(明治17年)植物園内に[札幌博物場]が誕生しましたが、1886年(明治19年)には、偕楽園にあった博物場と合併して札幌農学校に移管されこれが現在の植物園の[北大博物館]です。北大博物館誕生は、ホイラーの地道な努力の結晶であり、草分け的存在でもありました。上左図は当時の[博物場]の写真ですが、この貴重な画像は小樽に在住されていた奥山富作さんが遺されたアルバムの中の1枚で、K・Umezuさんのご厚意でお借りしたものです。上右図は、現在の北大付属植物園内にある博物館です。
ホイラーと豊平橋の変遷
ホイラーは、教鞭を執る傍ら開拓使の技術顧問として、橋や道路の建設にも数多く携わつていました。豊平川に架かる橋の中でも[豊平橋]は歴史も古く現在に至るまで幾度となく架け替えを余儀なくされてきました。志村鉄一・吉田茂八の渡守時代は簡単な仮橋でしたが、最初の本格的な橋の設計は開拓使が招聘したホルトでしたが1875年(明治8年)竣工した橋は洪水のため2年を経たずに流失しました。復旧を担当したホイラーは、流失した原因を究明し、これまで架けられていた2個のアーチ型を1つのアーチ型橋梁に架け替え長さ34間、幅3間の架橋を行い明治11年10月に竣工しました(写真 上図 所蔵 北大付属図書館)。
その後豊平橋は幾多の改良を重ねつつ現在に至っていますが、豊平橋の歴史的変遷を考えると、ホイラーの隠れた努力が有ったことを銘記したいとおもいます。