宇都宮仙太郎

プロフイール

宇都宮仙太郎は、大分県から北海道にわたり酪農の分野で努力を重ね、雪印乳業の基盤を築いた先人の一人として今日もその名を留めています。仙太郎は、大分県大幡村(現在の中津市)に1866年(慶応2年)4月14日生まれました。その後上京して当時高橋是清が校長を務める神田の共立学校に入学しました。彼が20才の時酪農に志を燃やし北海道に渡り真駒内牧場を訪れました。(この牧場はエドウィン・ダンが開いた牧場です)。ここで牧夫として採用されましたが、乳牛の勉強のためにはアメリカに行くことが必要と考え、1887年(明治20年)アメリカに渡りました。アメリカでの修行を終えて1890年(明治23年)帰国し、翌年には札幌で市乳の販売を開始しました。又、バターの製造にも着手しましたが、これは民間では最初で北海道酪農史の上でも記念すべき一ページとなりました。仙太郎は、1940年(昭和15年)3月1日、75才を一期に酪農に捧げた生涯に別れを告げたのです。
所蔵 北大付属図書館

仙太郎が経営した宇納農場

宇納農場跡札幌から国道274号線を走ると北広島市の手前に上野幌があります。この一帯は雪印種苗の敷地で、園芸センターなどがありますが、かつては宇納農場だつた場所です。もともとは出納(すいとう)農場でしたが宇都宮仙太郎が経営に参画し、[宇納農場]となつたものです。仙太郎は、1902年(明治35年)豊平橋から東に1キロばかり離れた現在の豊平区菊水の原野に牧場を開きホルスタイン種20余頭を飼育していました。大正年代に入り、1915年(大正4年)仙太郎が会長となつて札幌酪農組合を結成しました。仙太郎は、上野幌の出納農場(現在の雪印種苗)を借りてバターの工場を造り製造を行っていました。

酪農の先駆者宇都宮仙太郎

酪聯発祥の地碑
現在雪印種苗構内にある[雪印バター誕生の記念館]前には[酪聯発祥の地碑]が建立されています。1958年(昭和33年)建てられたもので碑文は宇都宮仙太郎の薫陶を受け長く北海道酪農界に尽くした黒沢酉蔵が書かれたものです。
雪印バター誕生記念館[雪印バター誕生の記念館]です。この記念館は雪印乳業の前身である、北海道酪農販売組合)が1925年(大正14年)にここにあった宇納農場の製酪所を借り受けてバター製造を開始した事を記念して設けられました。建物が老朽化しているため内部には入れませんが、案内ボードによると、はじめてバターの製造を行ったのは大正14年7月25日で、1日の生産量は120ポンド(約54KG)から200ポンド(約91KG)でした。
出納邸
出納邸です。この建物は、この地で牧場を経営していた出納陽一氏の邸宅として1925年(大正14年)に建てられたものです。彼がデンマークに留学中に目にした富豪の家をモデルにして設計されたと言われています。さっぽろふるさと文化百選にも選定されている保存物の一つでもあります。