プロフイール
[エドウィン・ダン]は、1848年アメリカオハイオ州チリコシで生まれましたが、マイアミ大学を卒業後23才で独立して従兄弟と共同で牧場の経営に当たっていました。一方1869年には北海道の開拓を進めるために開拓使が設置されましたが、当時の開拓次官黒田清隆は1871年に米国から農務長官のホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘しました。1873年ケプロンは息子のA・Bケプロンを通じてシカゴに近い[ダン牧場]から牛20頭を購入しましたが、このときダンに農業教師になるよう奨め、ダンも1年契約で日本に来ることとなったのです。ダンが25才の誕生日を迎える直前でした。1873年来日したダンは北海道の開拓に役立つ実践力のある技術者の養成に努めました。来日後青森県出身の松田ツルと結婚しましたが、1876年札幌への転勤を命ぜられ6月1日に着任しています。この年の8月にはウイリアム・S・クラークを迎え札幌農学校が開校しました。所蔵 北大付属図書館
真駒内放牛場の建設
ダンは来札後札幌の西部に新しい牧草地を設け300頭を収容出来る札幌牧羊場を開設しています。ダンの功績として高く評価されるのは真駒内放牛場(左図)の建設です。1876年建設に着手して翌年からは放牛場としての活動を開始しています。ダンは酪農に必要な搾乳場、乳製品加工場、穀物貯蔵場など多くの施設を作ると共に、真駒内川の上流から用水路を掘って家畜管理用の水を確保するなど畜産分野の基盤整備に努め今日の発展の基礎を築いたのです。1882年には開拓使が廃止され、真駒内放牛場は農商務省に移管され、その後北海道庁に移管され、1893年(明治26年)からは[北海道庁種畜場]として、北海道の総合畜産センターの役割を担っていました。ダンは6年半にわたる北海道での活躍を終えて東京に戻りました。ダンは1931年5月15日東京で82才の生涯を終えましたが、ダンが北海道に残した数々の功績は今も尚高く評価されています。今日近代的な都市に発展した真駒内の原点はエドウィン・ダンが築いた放牛場だと言つても過言ではないと思います。 所蔵 北大付属図書館
ダンが建設した放牛場は、真駒内地区の約三千ヘクタールに及んでいます。現在の真駒内の入り口にある[真駒内第一公園]には、この跡地の碑が建立されています。佐藤忠良さんの作品で[牛と少年]という題が付けられていますが未開の地で将来に向かって希望を膨らませる少年の気迫が迫ってくるような躍動感溢れた作品です。
エドウィン・ダンが基盤を作った真駒内
[真駒内]と言えば札幌以外の方でも、あの1972年のオリンピックの競技場の有った場所と言うことでご存じだと思います。このあたり一帯はかつての放牛場があった場所ですが、現在は真駒内公園]に生まれ変わっています。この公園は、南北1.7`、東西0.7キロの平坦な森林公園ですが、針葉樹や広葉樹の樹木に囲まれ、春にはエゾヤマザクラ750本、ヤマザクラ30本が咲き誇る桜の名所としても市民に親しまれています。この公園には一周10キロのジョキングコースも設けられており、冬になると歩くスキーのコースに変わります。真駒内は札幌を代表する大住宅地ですが、地下鉄南北線の南のターミナルとして重要なアクセスの拠点でもあります。
ダンの想い出を留める記念館
地下鉄[真駒内駅]から徒歩10分の処に[ダン記念館]があります。同氏を記念してかっての[北海道庁種育場の庁舎]の一部を保存して、現在地に[エドウィン・ダン記念館]として移転したものです。場所は札幌市の真駒内公園の近くで[エドウイン・ダン公園]の中にあります。札幌-支笏湖線も間近を走っており、地下鉄真駒内からも近いので多くの方が参観に来られている様です。展示場の壁には[一木万寿画伯]が描いた大小23
の油絵も展示され、これらの油絵もエドウィン・ダンの生前の史実に基づいて描かれているだけに、当時の生活や仕事の様子が絵を通して伝わってきます。記念館を出て公園に入ると東側に[エドウィン・ダン像(峯孝氏作)]が見えてきます。緑に色づいた樹木の下から眼前の[ひょうたん池]を見下ろしています。農作業衣に身を固め、肩には小牛を背負った逞しさを感じさせる像です。