小川二郎と札幌興農園
小川二郎(おがわじろう)は、オールドフアンには懐かしい[五番館]の基礎を創った他、大通公園の前身である花壇を造った先人の一人です。小川二郎は、1870年(明治3年)7月現在の島根県松江市殿町で生まれました。その後1888年(明治21年)8月札幌農学校予科に入学しましたが、在学中に現在の由仁町(由仁村)に133ヘクタールの未開地を払い受けています。1893年(明治26年)農学校を卒業後は農学校第一期生の渡瀬寅次郎の強力な援助を受け札幌に種苗店を開店することができました。[札幌興農園]は、渡瀬の経営する[東京興農園]を模範として経営に当たり北海道に於ける通信販売の元祖的存在でもありました。
所蔵 北大付属図書館
[札幌興農園]
現在姿を消していますがかつての[五番館]は、丸井今井と並んで札幌におけるデパートの老舗中の老舗で、象徴的な存在でした。五番館の創業者は、小川二郎で、す。小川は、明治27年(1894年)札幌興農園(南2西1)を開業しましたが、明治39年(1906年)には北4条西3丁目にレンガ造りの店舗を作りこれを[五番館興農園]と名付けました。
所蔵 北大付属図書館[札幌写真帖]より
小田良治と五番館の開業
小川二郎は[五番館興農園]では種苗の他に用品雑貨などの販売を行いましたが、不況の影響もあり経営に行き詰まり、明治42年(1909年)小田良治に店舗を譲渡しました。小田良治(おだ りょうじ)は、1872年(明治5年)8月8日、大分県速見郡日出町で生まれました。良二は、1890年(明治23年)単身アメリカに渡り、サンフランシスコ商業高校を卒業しています。1897年(明治30年)帰国して三井物産に勤務し札幌駐在員となりました。彼は、1943年(昭和18年)2月に享年72才で死去しましたが、彼の生涯は、アメリカで学んだ資本主義を経営の面で実践し、札幌の商業界に新風を巻き込み経済の発展を推し進めた功績は大きなものがありました。
創業時の[五番館]
所蔵 札幌市公文書館
[五番館]は、それまでの[五番館興農園]の4倍にあたる2.647uに拡張して、外国の雑貨、食料品、缶詰なども販売も取り扱うなど話題を呼んでいました。
五番館と札幌駅前
五番館の創業当時、札幌駅前は、1908年(明治41年)建てられた新しい駅舎(左図)で乗降客の数も多く大変賑あっていました。札幌で初めての近代的デパートの誕生により、列車を利用して多くの客が地方から訪れていました。所蔵 北大付属図書館
五番館がオープンした時と同じ年に馬車鉄道(左図)の路線が札幌駅まで延伸し、馬車鉄道を利用する客と国鉄を利用する客で、五番館は大変良い環境にありました。
所蔵 札幌市公文書館
五番館の歴史の変遷
昭和30年代の五番館。この後近代ビルに建て替えられました。1959年(昭和34年)には地上6階、地下3階の新店舗が完成、更に1972年(昭和47年)には地上8階、地下3階の店舗に建て替え業績の拡大を図ってきましたが、1982年(昭和57年)には西武百貨店と業務提携、1988年(昭和63年)には旭川西武と合併して社名も[西武北海道]と改称しました。その後1990年(平成2年)には新館をオープンして社名を[五番館西武]と改めました。
[五番館西武]と変わり札幌市民も一抹の寂しさを持っていましたが、1997年(平成9年)には西武百貨店と合併して社名が[札幌西武]に変りね永年親しんできた[五番館]の名前が完全に消えてしまいました。
長い歴史を誇ってきた五番館も、西武グループの傘下に入り、札幌西武百貨店として営業を展開することとなりました。発展を続ける札幌流通業界は[大通エリア]と[札幌駅前エリア]に二分され激烈な競争が展開されています。かっては、札幌駅前を代表してきた五番館も、新たに参入した[東急デパート][大丸デパート]と共にその一翼を担いつつ、[西武百貨店]として赤レンガのデパートのイメージを遺して新たな歩みを続ける事となったのです。。
札幌西武閉店で[五番館の歴史に終止符]
2009年9月30日[札幌西武]閉店の日を迎えました。振り返ると1906年(明治39年)小川二郎の[五番館興農園]の開業から小田良治の本格的な[五番館]経営によって[五番館]は、[札幌駅前五番館]のキャッチフレーズで地元のデパートとして札幌市民はもとより広く道内外からも高い評価を得てきた札幌の歴史的文化遺産でもありました。103年の歴史を閉じた想い出深い[五番館]に感慨無量です。