佐藤孝郷(さとうこうぎょう)は、1850年(寛永3年)3月、仙台伊達藩の一支藩である白石藩の家老の子として宮城県刈田郡白石町に生まれました。仙台藩は戊辰戦争の際、奥羽列藩同盟に加盟して官軍に抵抗したため、領地を没収されました。このため白石藩の片倉家中1.406戸は路頭に迷うこととなり領主の片倉邦憲は、北海道開拓を目指す意思を表明しました。開拓使は1871年(明治4年)白石領片倉家の家臣600余人を北海道開拓使貫属の資格を与え官費で移住する指令を発したため、孝郷の引率で白石にはじめて開拓の鍬をおろしました。入植当初はこの地帯は[望月寒]と呼ばれていましたが、孝郷を中心に原野を開拓して道路を開き住居の建設に努めました。この努力に対し岩村通俊判官は[望月寒]を改めて郷里の名を取って白石村]と命名しました。佐藤孝郷が開拓した[白石村]は、現在の札幌市白石区です。白石区は、豊平川と厚別川に挟まれた3,458平方キロメートルの地域で、高速道路、地下鉄、各路線バス、JRなど東西に延びる交通網が発達したエリアです。
札幌から伸びる国道12号線の道路沿いの白石小学校(左図)の校庭に[佐藤孝郷顕彰碑](右図)がありますが、この校庭に佐藤孝郷の顕彰碑が建立されているのは、この学校の前身が[善俗堂]で創設者が佐藤孝郷だからです。佐藤は入植後も子弟の教育には熱心に取り組み、この学校の近くにあった自宅(現在の本通三丁目南)の隣に学問所を開き、貧しい児童には教科書や文房具を貸与していました。この学問所は、村の会議所としても使われていました。当初生徒は18人でしたが3年後には31人となりました。このため校舎が手狭になつたため、新たに校舎を建て[村学舎]と呼んでいました(現在の本通二条三丁目の建設会社敷地)。現在の白石小学校は、1881年(明治14年)公立白石学校となりそれが現在に至っています。
左の写真は、国道12号線です。かつて[善俗堂][村学舎]があり、佐藤孝郷がはじめて入植したこの地帯は、ビルが建ち並び車が絶え間なく交錯する都市の姿です。ここが白石発祥の地と言われても実感が湧いてきません。
1871年(明治4年)仙台藩白石領から600余人がこの地に入植しましたが、このうち三木勉等は別れて発寒村に入植しました。望月寒(現在の白石)に入植した一部が現在の白石区菊水地区に移り[新白石村]を開村しましたが1874年には[上白石村]と改称、1902年(明治35年)白石村に合併されています。現在国道12号線から僅かに西に外れた場所がかつての白石村役場のあった場所で、左の様な記念碑が建立されています。佐藤孝郷も白石村貴属取締兼戸長を命ぜられ行政面でも大変努力して1874年(明治7年)には24才で第一大区副区長を命ぜられ1881年(明治14年)辞任しましたが、辞任後も白石開発のため稲作の試験を始め、白石地区での稲作のきっかけを作っています。
写真は昭和初期の村役場です。白石村は、1950年札幌市に合併されその後1972年には政令都市施行に伴い白石区が誕生しました。現在この場所から程近い処に区役所が建設されています。
白石開発の祖であり、指導者として長年努力を傾けてきた佐藤孝郷の名前も現在では忘れられた存在となっていますが、このような先人の努力は何時までも記録に留め感謝の気持ちを持ち続けたいものです。所蔵 札幌市中央図書館