佐藤昌介

プロフイール

佐藤昌介(さとうしょうすけ)は、1856年(安政3年)現在の岩手県で藩士の佐藤昌蔵の長男として出生しました。東京英語学校から明治9年に札幌農学校に転じ同13年に第一期生として卒業しました。卒業後はアメリカで農業技術を学び帰国後の明治27年には札幌農学校の校長に就任、以降東北帝国大学農科大学学長、北海道帝国大学総長を36年間勤め昭和5年退官しました。


北大キヤンパスの正門を入ると事務局の建物の脇に[初代総長佐藤昌介先生]と言う銘板を付けた胸像が建立されています。佐藤昌介が北大と共に歩んだ生涯は、今日の北大発展の最大の功労者として語り続けられています。この胸像は、1932年(昭和7年)中央講堂(現在のクラーク会館)前に建立されましたが、戦中は金属献納され戦後の1956年(昭和31年)再鋳されその後現在地に移転されたものです。

パネルで見る北大の歴史

総合博物館前の標石北大百年記念展
北大総合博物館(旧理学部学棟)では、2007年北大の歴史展が開かれ開拓使仮学校の創設、札幌学校の開校、札幌農学校の開校、東北帝国大学農科大学への昇格、北海道帝国大学への昇格、戦後の学制改革後の現在の姿が、歴史的な事象と関連付けながらパネルで詳細に説明されていました。佐藤昌介氏は、1886年8月アメリカでの留学から帰国後母校の札幌農学校の教授に発令され以降1891年(明治24年)の校長心得から校長、学長、総長を務め1930年(昭和5年)12月、北大総長の職を退きましたが、幾度となく訪れた大学の危機を乗り切り北大を守り続けた歴史の一齣一齣がこれパネルにからも垣間見る事が出来ます。

北大の危機を救った古河講堂

古河講堂戦時体制下の北大は財政的な問題から農学校の存続も危機的な状況にさらされました。写真は1907年(明治40年)古河財閥の寄付により出来た[古河講堂]ですが、このような外部の財政的な援助が北大の独立の基盤となりその後の発展に繋がって行きます。佐藤昌介氏の卓越した政治力と先見性がこれらの危機を救ったと言われています。

札幌農学校から農科大学へ

北大の歴史で一つの転換期は、札幌農学校から農科大学への移行期でした。1907年(明治40年)6月、仙台に東北帝国大学を置き、札幌農学校を東北帝国大学農科大学とすることが決まり、札幌農学校は創立以来31年目で念願の大学昇格が決まりました。先程の古河講堂を始め、多くの学棟の建設、講座の整備拡充が進められ、その後の北海道帝国大学への道筋が着実に進められました。所蔵 北大付属図書館
この石碑は、1936年(昭和11年)10月
北海道で陸軍特別大演習が行われた際、新築された農学部の本館が、行幸された昭和天皇の仮御所となり、大本営となった事を記念する碑で、現在のクラーク像の側に建立されています。現在の平和なエルムの学園の姿と戦時体制下の姿を重ね合わせながら北大の歴史と偉大なる指導者佐藤昌介氏の功績に思いを寄せると、感慨深いものがあります。

佐藤農場

佐藤昌介氏は、アメリカ留学時代大農場で農業の実地を学び、帰国後は、学問の実践化を説き、1889年(明治22年)12月苗穂村の未墾地約202.5ヘクタールの貸下で[佐藤農場]の経営を行いました。泥炭湿地の恵まれない農地は氏の努力で牧草畑として蘇り大きな成果を挙げ、今日の農業の発展に大きな功績を遺されています。昭和3年にはこれまでの功績に対し男爵に列せられていますがこの受爵記念碑が苗穂農本神社に建立されています。