重延卯平
プロフイール
重延卯平(しげのぶうへい)は、平岸開拓の先駆者の一人です。現在の平岸地区は札幌市の豊平区にあり、かつては[リンゴ]の生産地として良く知られている地区です。重延卯平は、1874年(明治7年)愛媛県越智郡菊間村に生まれました。彼は父が早死したので叔父の久太郎に供われて1884年(明治17年)渡道し平岸に入植しました。卯平の功績は村にはじめて水田を開いて農業の発展に尽くした恩人として今尚平岸開拓の先駆者として崇められています。卯平は、1935年(昭和10年)6月25日、62才で他界しましたが、彼の功績を称えて[故重延卯平翁之碑]が豊平区平岸5条7丁目平園公園内に建立されています。
卯平が切り拓いた平岸地区
平岸地区にある[天神山緑地]には、かつての林檎園の跡地としての記念碑や林檎に纏わる文学、歌碑などが建立されていますが、この記念碑は1990年建てられたもので開基120年と記されています。平岸はアイヌ語で[がけ]の意味です。1871年(明治4年)3月に岩手県人60戸が移住し、製網の原料となる[あさ]を栽培したので[麻畑(あさはた)村]と呼ばれていましたが、1875年(明治8年)に[平岸村]と改称されました。平岸村はその後長い歴史の中で様々な変遷を経て現在は、札幌市豊平区として大きく発展を遂げています。現在の発展を築いたのは多くの先人達の努力の賜ですが、隠れた開拓の先人の一人として重延卯平の功績は後世に語り続けられています。
本願寺道路の建設
1871年(明治4年)東本願寺門主大谷光蛍による[本願寺道路]が現在の伊達市から平岸間103キロが完成しましたが、この工事には延べ5万5千人が従事した大工事でした。写真は平岸地区の当時の道路建設の様子です(写真左図 所蔵 北大付属図書館)。原始林を切り開いて道路や畑を作る作業は想像を絶するものがあったと思います。写真右図は、現在の地下鉄澄川駅近くに建立されている[本願寺道路終点の碑]です。この道路の完成で平岸地区の開発は大きく前進することとなりました。
水田の開発と稲作の普及
石狩地方ではじめて米の試作に成功したのは1873年(明治6年)の島松村での中山久蔵でした。卯平も自分の湿地を水田にして試作を始めましたが、最初のうちは村民から見向きもされませんでした。しかし卯平は努力を重ね土功組合を結成して村内に400ヘクタールの水田を造成しました。彼は、稲の栽培方法のみならず、除草機、脱穀機なども作成するなど稲作の普及と作業の近代化に大きく貢献しました。写真は1877年頃(明治10年)造成された平岸村の水田の様子です。(写真は、平岸郷土史料館の展示パネルから転載しました)。
平岸地区と林檎の栽培
平岸村]でのりんごの栽培は、明治5年に当時の開拓使顧問ケプロンの進言によりアメリカからりんごの苗木を輸入した時に始まります。その後1900本の苗木が平岸地区の村人に配られ、豊平川岸の沖積地で明治8-10年にかけて苗木の栽培が盛んになり、村のいたる処で苗木の栽培が行われました。明治14年には結実したりんごを明治天皇行幸の際に献上しています。このように[平岸]と言えば直ぐに[林檎]を連想させる位に、かつての平岸は林檎の栽培地としてよく知られていました。かつての林檎園であった天神緑地には、林檎に纏わる碑が建立されていますが、写真左図は、久保栄の[林檎園日誌]碑です。現在札幌市の豊平区にある平岸地区は豊平川以東の住宅地として大きく発展を続けています。写真右図は[平岸街道]ですが、幹線として交通量も多い道路です。この中央ゾーンに[林檎の木]が植えられ、春から秋にかけて林檎の生長が人々の目を和ませてくれます。たわわに実った真っ赤なりんごが連なる街道は、一幅の絵と言った趣です。