志村鉄一・吉田茂八

プロフイール

[札幌開祖]と呼ばれているのが、志村鉄一(しむらてついち)と吉田茂八(よしだもはち)です。現在の札幌は、中心部よりも篠路村、札幌村などの隣接村落の開発が最初で、遅れて中心部である[札幌本府]の開拓が進められました。札幌中心部の開発の原点の一つが豊平川です。
志村鉄一碑現在の豊平橋東岸に建立されている志村鉄一の碑文には[氏は信州の剣客にして、石狩調役荒井金助の召に応じ、安政4年に移住す。幕名により豊平川渡守となり駅逓を兼ねる]と書かれています。志村鉄一は、安政4年現在碑の建っている場所から約120メートル川下に住居を設け農耕の傍ら豊平川の渡守を営んでいました。この住居は[通行屋]として当時この地を通過する箱館奉行以下の宿泊所でもありました。志村鉄一は、1879年(明治2年)開拓使時代が始まる以前の札幌の先住者として開拓の礎を築いた先人の一人でした。
吉田茂八碑
志村鉄一の碑と対照的に豊平橋の西岸に建立されているのが、吉田茂八の碑です。吉田茂八は、岩手県宮古に生まれ安政2年に蝦夷地(北海道)に移住しました。安政4年には、先述の荒井金助に命じられ、志村の対岸に移住しました。吉田茂八の職業は土方職(請負業)で、明治4-5年には大岡助右衛門の下請けで現在の創成川南3条から南7条を掘削し当時は[吉田堀]と呼ばれ、札幌村の大友亀太郎が掘削した[大友堀]と並び称せられたものです。

豊平橋の変遷


志村、吉田が渡守を務めた豊平川に最初の橋が架けられたのが、1871年(明治4年)の事です。写真左図の様に最初の橋は丸太を並べた極めて粗末なもので相次ぐ風水害で幾度となく流失を余儀なくされています。この橋も完成後3ヶ月で流されました。その後明治8年8月に架けられた橋も明治10年4月洪水のため破壊され、永い歴史の中で自然との闘いを繰り広げながら幾度となく架け替えられています(写真右図は大正年代の豊平橋の姿です。所蔵 北大付属図書館

これまでの橋の中でも、1924年(大正13年)竣工した旧豊平橋は、当時としては超豪華な造りで道内随一の名橋と言われていました。
この旧豊平橋はタイドアーチ式で、橋長120b70、巾員18b29で、当時では超豪華な道内第一の名橋と称され、大正14年(1925年)には市電が開通し札幌の名物の一つに数えられていました。この豊平橋には岡山県万成産の赤色花崗岩の立派な親柱や袖高欄が設けられ、親柱の上には鋳鉄製の電灯設備が置かれていました。この二代目豊平橋も時代の変化と共に42年の歴史に幕を閉じ昭和41年(1966年)現在の豊平橋が竣工されました。長い間市民の足として活躍してきた市電も昭和46年(1971年)10月豊平橋から姿を消しています。
所蔵 札幌市 公文書館
豊平橋からの俯瞰図
1966年(昭和41年)老朽化のため現在の橋に架け替えられています。
現在の豊平橋から南方向を俯瞰したものです。この川の両岸に、志村鉄一と吉田茂八の碑が建てられ、歴史の証人として豊平川の歴史を見守り続けています。