プロフイール
水原寅蔵(すいばらとらぞう)は、1818年(文化15年)1月1日、近江國(現在の滋賀県)甲賀郡三雲村に生まれましたが、13才の時に郷里を出て京都、大阪地方で土工夫を続けていました。後、渡道しましたが、七重の薬草園の創設を請負い、[水原の寅蔵]として土建業界で一躍勇名を馳せるまでに至りました。開拓使時代の松本十郎大判官時代には松本の厚い信頼を受けて札幌本府の建設に参画した他、札幌で最初の大規模な果樹園を造成するなど産業の発展にも多くの功績を遺し札幌開発に尽くした四翁の一人としてその顕彰碑も建立されています。寅蔵は、1899年(明治32年)4月、82才の生涯を終えましたが、篠路村の早山清太郎、島松村の中山久蔵と合わせて[開拓率先の三翁]と呼ばれていました。所蔵 北大付属図書館
四翁表功之碑
この碑は、中島公園にある[日本庭園]の入り口に建立されている[四翁表功之碑]です。この四翁とは、札幌の開拓に尽力した[水原寅蔵][大岡助右衛門][石川正叟][対馬嘉三郎]の四翁の事です。札幌軟石で作られた台座の上に白御影石の碑があります。
水原寅蔵は、1871年(明治4年)札幌に移住して開拓使の札幌本府の建設に活躍しました。彼は、独立して開拓使御用請負人となり、勤勉な働きぶりは目をみはるものがあり事業は繁盛の一途を辿りました。写真は、札幌本陣と創成橋ですが、これらの作業など水原は、大岡助右衛門と一緒に[中川組]の一員として工事に携わつていました。
彼は松本十郎の厚い信任をうけていましたが、松本が開拓使を去った後は別の分野での事業に取り組むこととなり、これが大果樹園の造成に繋がっています。
所蔵 北大付属図書館
水原寅蔵と林檎園
札幌でリンゴといえば平岸が有名でしたが、最初にリンゴの栽培に取り組んだのは、水原寅蔵でした。開拓使は、1872年(明治5年)に当時の開拓使顧問ケプロンの進言によりアメリカからリンゴの苗木を輸入し、開拓使の本庁構内に約20町歩の果樹園を開き各種の果樹の栽植を行いました。開拓使は果樹栽培を奨励しましたが水原はこれに応えて1876年(明治9年)現在の[すすきの]から中島公園一帯に大規模な果樹園を開設しました。当時は[水原リンゴ]として名声を博しましたが、この果樹園は最初に出来た民間果樹園で、この果樹園がきっかけとなつてその後平岸、白石などでのリンゴの栽培に大きな影響を与えました。全国的にも有名になった[平岸村]でのりんごの栽培は、1900本の苗木が平岸地区の村人に配られ、豊平川岸の沖積地をはじめ村のいたる処で苗木の栽培が盛んに行われました。明治14年には結実したりんごを明治天皇行幸の際に献上していますがこのときには水原果樹園のリンゴも献上されています。写真は当時の苗木の栽培畑の様子です。写真は[札幌繁栄図録(高崎龍太郎・所蔵 財界さっぽろ)]
[水原果園前河の景]
所蔵 北大付属図書館
寅蔵の名を留める旧水原家と石倉
水原寅蔵は、リンゴ園の栽培ばかりでなく様々な面で開拓使の開拓政策に協力しています。その一つにあげられるのが彼の建築した住宅です。開拓使は、住民の生活の向上を図るため衣食住の改善に努め、官庁、官舎などの西洋化を行い一般住宅の改良を促したものの成果は上がらずに推移していました。このような状況下、寅蔵は明治9年に現在の南1条西4丁目に西洋風の家屋と石倉を建築して、民間における住宅改良のさきがけとなりました。この家屋は当時としては大変立派な家屋で、札幌における貴賓の宿泊処として使われていたようです。
写真は[札幌繁栄図録(高崎龍太郎・所蔵 財界さっぽろ)]
写真は、現在の状態ですが石倉のみが現存しています。
リンゴの栽培も年々果樹園が宅地化され減少の一途を辿り、昭和30年代以降は都市化が進んでその姿を見ることが出来なくなりました。
写真は、1950年(昭和25年)リンゴを貯蔵するために建てられた軟石で作られた貯蔵庫です。現在は飲食店として活用されていますが、懐かしい思いでを留めている建物です。勿論、かつての水原果樹園の面影はどこにも有りません。