助川貞二郎

プロフイール

現在の札幌は、地下鉄、市電、市バス、民間バス路線が市内をくまなく走行していますが、札幌の交通の原点は、1909年(明治42年)の石山馬車鉄道です。これらの事業は助川貞二郎(すけがわていじろう)の努力に負う処が大きく、助川は、現在の札幌の交通体系を確立した先駆者の一人です。彼は1860年(万延元年)現在の茨城県筑波村で生まれました。助川は、1904年(明治37年)札幌石材馬車鉄道合資会社を設立し、馬車鉄道時代から電車時代、更には定山渓鉄道の事業にも参画するなど、交通面で多くの功績を遺しています。貞二郎は、1929年(昭和4年)9月、70才での生涯を終えました。[交通史写真帖]より転載 所蔵 札幌市公文書館

馬車鉄道時代

鉱石採掘現場馬車鉄道の運行
札幌に馬車鉄道が始まつたのは、南地区で軟石の採掘が始まり、これを輸送する手段として使われたものです。明治4年(1871年)、ケプロンに同行して来道した、ワーフイルド・アンチャルが札幌周辺の地質調査を行い、現在の石山地区での採掘を明治7年(1874年)から始めました。この札幌軟石は、当時の開拓使本庁舎や豊平館の建築にも使用されています。このレリーフは、藻南橋の欄干に掲げられているものです。当時の採掘現場と馬車鉄道の様子を描いています。
馬車鉄道札幌の交通機関はこの馬車鉄道から始まりました。札幌石材馬車鉄道株式会社は、1912年(明治45年)札幌市街馬車軌道株式会社と改め、市内の各地域に路線を拡張しました。1910年(明治43年)には札幌駅前までの軌道が敷設されています。写真は、1912年(大正元年)市内を運行する馬車鉄道です。
所蔵 北大付属図書館

馬車鉄道から電車時代へ

博覧会歓迎アーチ
馬車鉄道から電車に変わる契機となつたのは、開道50周年を記念して開催された博覧会でした。この博覧会は、1918年(大正7年)8月から9月にかけて開催されましたが、この博覧会には馬鉄に替わって電車を走らせようという気運が盛り上がり、1916年には社名も、札幌電気軌道株式会社と改められ、電車導入に向けての努力が払われました。この中心的な役割を果たしたのが助川貞二郎で、多くの困難を克服して博覧会に電車を無事走らせ、助川の面目躍如たるものがありました。所蔵 札幌市公文書館

市営交通への転換

市営電車
その後札幌市も1922年(大正11年)市制が施行され、電車の公益性に鑑みて公営化の動きが急速に高まり、1927年(昭和2年)事業の譲渡が成立して12月1日より市電として運行されるされるようになりました。この電車事業の譲渡に当たっては、助川と高岡市長との間のねばり強い交渉が続けられました。市電の運行にあわせて昭和5年からは市バスの運行も開始され、市電・市バスが札幌市民の足として大きな役割を果たす事となりました。
所蔵 札幌市公文書館
現在の市電現在の地下鉄
札幌の交通体系も現在は昭和46年12月開通の地下鉄が主力となり、市電・バスなど市内を縦断する交通網が整備されていますが、これらの原点を作りその後の発展に大きな力を尽くした先駆者である助川貞二郎の功績の偉大さを改めて思い知らされるのです。