プロフイール
開拓使によって進められた本府札幌の街造りも明治から大正にかけて着実に進められ、1922年(大正11年)8月1日、札幌は、函館、小樽、旭川、釧路と共に市制が施行されました。当時の札幌の人口は12万7千人で全国で13番目でした。この最初の市長に就任したのが、高岡直吉(たかおかただよし)です。高岡直吉は、1860年(万延元年)1月22日、現在の島根県津和野町で生まれました。上京して東京英語学校(後の東京大学予備門)に学び、ここから官費生として札幌農学校に進学しました。直吉は北海道に移り増毛郡長、根室郡長から道庁の各部長を歴任後、1911年(明治44年)には郷里の島根県知事に就任、1918年(大正7年)には、門司市長に就任しています。札幌市会は直吉の満期を待って札幌市長就任を要請し、彼の快諾を得て1924年(大正12年)2月に札幌市長に就任しました。札幌市長としては、これまでの行政経験と手腕を発揮して新札幌市の基盤整備に努力を尽くされました。1942年(昭和17年)行年83才で死去されました。一方、高岡直吉の弟である高岡熊雄(たかおかくまお)も札幌市の名誉市民に推された方で、北大の総長を務めた学者としても著名な一人ですが、熊雄の遺された業績として今尚高く評価されているものに1897年(明治30年)出版された[札幌沿革史]があります。この書は札幌に関する歴史書の始まりで、貴重な文献として多くの分野で活用されています。兄直吉とは10才年下でしたが、兄が初代の札幌市長時代も、学者として市政の様々な分野に参画して大きな功績を遺されました。1962年(昭和37年)12月29日、91才の生涯を終えられました。
高岡市長と電車の市営化
高岡新市長が就任後取り組んだ最大の懸案は、電車の市営化でした。札幌の電車は、1918年(大正7年)博覧会開催を機に開通したもので、この開通は助川貞二郎の並々ならぬ努力の成果でした。(助川貞二郎の項参照)。高岡市長と助川氏との交渉は難航を極めましたが、妥結に向けての官民一体の努力の結果、1926年(大正15年)10月25日妥結を見るに至りました。この結果、電車事業は同年12月1日より札幌市営として運営される事となり、その後の市営交通の発展に繋がる出発点となつたのです。(写真は市営化して運行する電車の様子です 所蔵 札幌市公文書館[交通史写真帖]より転載。
進展する都市基盤の整備
高岡直吉は、市長再任後の1927年(昭和2年)12月15日、後任市長を橋本正治にバトンタツチして退任しましたが、札幌市営電車への移管問題を始め、札幌市の将来を見据えた様々な事業にも多くの功績を遺しています。現在のライフラインの基盤となつている下水道整備や都市基盤の整備にも力を尽くしています。
大通公園
写真の大通公園も、かつての大通逍遙地から本格的な公園へと整備が進められたのもこの時代です。
(所蔵 札幌市公文書館[温故写真帖]より転載)
中島公園
現在の中島公園も、1892年(明治25年)設けられた、北海道物産見本陳列場が契機となつて、開道50周年記念博覧会がこの公園で開催されましたが、それ以降毎年各種の博覧会、品評会、展覧会などが開催され大変賑あいのある公園へと発展を続けたのもこの時代です。(所蔵 北大付属図書館)
高岡熊雄の業績
高岡直吉の弟である高岡熊雄は、宮部金吾に続いて札幌市名誉市民に推されるなど、学者としての業績の他に札幌市政に対しても大きな貢献を果たした一人です。特に後世に名を留めた[札幌沿革史]は、札幌に関する歴史書の中でも特に優れた文献として高く評価されています。又、高岡博士は人口統計の権威であることから札幌では都市計画の策定に必要な[区勢調査]の実施を提言しこれを実現しました。このような事から大正9年行われた第一回国勢調査では札幌が国勢調査の発祥地と言われています。このように兄の市長と共に札幌発展に寄与した熊雄は戦後、北海道開発の遂行の為設置された、北海道総合開発委員会委員長として北海道開発事業の推進に尽力されています。所蔵 北大付属図書館