豊平川のせせらぎが聞こえる、豊平橋の近く南4条東4丁目に[遠友夜学校記念室]がありましたが、2013年に札幌市資料館に移転しました。かつての[遠友夜学校]は、新渡戸稲造(にとべいなぞう)・真里子(まりこ)夫妻が創立した学校です。稲造は1862年(文久2年)8月3日、南部藩の新渡戸家の三男として盛岡でうまれました。稲造が6才の時に父を失つたため明治4年には叔父である太田時敏の養子となり東京英語学校に学んでいた明治10年に札幌農学校の二期生に応募し札幌に渡りました。明治14年に卒業後は開拓使の御用係、農学校の教授などを勤められ後年は、[遠友夜学校]の経営に情熱を捧げました。
記念室があった敷地は2015年[新渡戸稲造記念公園]として整備され、この一角には山内壮夫作の[新渡戸稲造・萬里子顕彰碑]が建立されたまま残されています。最近の新聞報道では跡地に記念館の建設構想が具体化しており近い将来記念室が建設されかっての姿を再現する予定です。
新渡戸稲造は、札幌農学校の2期卒業生で、教育者としての面ばかりでなく、国際連盟事務局次長として国際文化活動にも尽くされた国際人でもあります。北大構内ポプラ並木の側にある[花木園]の入り口に[新渡戸稲造博士顕彰碑]が建立されています。平成8年10月7日、北大創基120年を記念して建てられたものです。夜学校を創設された新渡戸博士は、1933年(昭和8年)10月16日カナダで開かれていた第5回太平洋会議に日本代表として出席していましたが病に倒れて客死しました。新渡戸博士は、札幌農学校の教授や遠友夜学校の創設など教育面のみならず、国際連盟事務次長などの要職を務められるなど国際的にも多くの足跡を残し[太平洋の橋]としての生涯を送られました。
遠友夜学校の設立にあたっては、萬里子夫人も大きな役割を果たしています。萬里子(メリー・パターソン・エルキントン)の実家は敬虔な清教徒で、この家に引き取られ成長した孤児が年老いて世を去るとき、メリーさんに贈った1000ドルを有益な事に使いたいと考え、夜学校設立の資金としました。萬里子夫人は、稲造が昭和8年没後は同13年まで二代目の校長として学校の運営に努力しました。
所蔵 北大付属図書館
北大に数々ある樹木の中で[ハルニレ]は大変有名で別名[エルムの杜]とも呼ばれています。今も構内至る所にハルニレの古木を見ることが出来ます。写真は北大正門を入ったすぐ側に立ち並ぶハルニレの樹木です。このハルニレは[新渡戸稲造夫人メリーさん寄贈のハルニレ]として、今も元気に生育しています、樹齢約100年と言われています。新渡戸博士の夫人メリーさんはアメリカ人ですが、札幌を去るにあたり北大に思い出を残そうと24本のハルニレの木を寄贈しましたが、その内の5本が北大正門入り口に今なおその面影を留めています。